中で響く指音は、忍ぶ恋路の男がする合図の様に聞える。其瞬間、十年前に経験しなかつた若い心持をわたしは今更味ふ様な気がする。
看護婦さんは行儀の正しい無口な女で、物を言へば薄い銀線の触れ合ふ様な清《す》んだ声で明確《はつきり》と語尾を言ふ。感情を顔に出さずに意志の堅固さうな所は山口県生れの女などによく見る型である。わたしは院長さんの博士よりも此の看護婦さんに余計気が置ける。
いつも産をして五日目位から筆を執るのがわたしの習慣になつて居たが、今度は病院へ這入《はひ》らねばならぬ程の容体であつたから後の疲労も甚しい。其れに心臓も悪い。熱も少しは出て居る。其れで筆を執らうなどとは考へないけれど、じつと斯《か》うして寝て居ると種種《いろいろ》の感想が浮ぶ。坐禅でもして居る気で其を鎮めようとしても却《かへつ》て苦痛であるから、唯妄念の湧くに任せて置く。その中で小説が二種ばかり出来た。一つは二十回ばかり出来てまだ未完である。其等は諳誦して忘れない様にして居るが、歌の形をして浮んだ物丈は看護婦さんの居ない間を見計《みはから》つて良人に鉛筆で書き取つて貰ひ、約束のある新聞雑誌へ送つて居る。せめて側にある雑誌でも読みたいのであるが、院長さんの誡《いまし》めを厳格に執り行ふ看護婦さんに遠慮して、婦人雑誌や三越タイムスの写真版の所ばかりを観るのを楽みにして居る。斯う云ふ意志の強い看護婦さんが側に居られる事は真に患者の為めになるのであると思ふ。
産前から産後へかけて七八日間は全く一睡もしなかつた。産前の二夜は横になると飛行機の様な形をした物がお腹から胸へ上る気がして、窒息する程呼吸が切ないので、真直に坐つた儘|呻《うめ》き呻き戸の隙間の白むのを待つて居た。此前の双児《ふたご》の時とは姙娠して三月目から大分に苦しさが違ふ。上の方になつて居る児は位置が悪いと森棟医学士が言はれる。其児がわたしには飛行機の様な形に感ぜられるのである。わたしは腎臓炎を起して水腫《むくみ》が全身に行き亘つた。呼吸が日増に切迫して立つ事も寝る事も出来ない身になつた。わたしは此飛行機の為に今度は取殺されるのだと覚悟して榊博士の病院へ送られた。
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生きて復かへらじと乗るわが車、刑場に似る病院の門。
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と云ふのがわたしの実感であつた。
二月の初に一度産の気が附いて、
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