産褥の記
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瓦斯《がす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)坐つた儘|呻《うめ》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)偶※[#二の字点、1−2−22]
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わたしは未だ病院の分娩室に横になつて居る。室内では夕方になると瓦斯《がす》暖炉《すとおぶ》が焚かれるが、好い陽気が毎日つづくので日のある間は暖い。其れに此室は南を受けて縁に硝子戸が這入つてゐるから、障子を少し位明けて置いても風の吹込む心配は無い。唯光線がまぶしいので二枚折の小屏風を障子に寄せて斜に看護婦が立てて置く。未だ新しい匂の残つてゐる畳の上に、妙華園の温室を出て来た切花を硝子の花瓶に挿した小い卓と、此月の新しい雑誌が十冊程と並べられてある外に何物も散ばつて居ない。整然として清浄な、而して静かな室である。
看護婦さんは次の副室に控へて居る。其処には火鉢や茶器や手拭掛や、調度を入れる押入や、食器を入れる箱などが備へてあるらしい。見舞に来る人は皆其処で帽や外套や被布《こおと》やを脱ぐ。其人達がわたしの前に現れる時は凡て掩ひを取去つた人達である。羽織袴の立派なのを改まつて著けてゐる人は少い。大抵は常著《ふだんぎ》の人である。裸体で這入つて来るのと格別相違の無い人達である。見舞の言葉もくどくどと述べる人は無い。何れも「奥さん、どうですか」位のことを云つて、後は帝国劇場の噂とか、新刊小説の評判とかを少時《しばらく》して帰つて行く。わたしは其人達の他人行儀の無い、打解けた友情の温く濃かなのが嬉しい。
と云つて其人達はお互の交際範囲でばかり生きてゐる人で無い。芸術ばかりで生きて居られる時代に住んでゐる人でも無い。次の副室に退くや否や、或人は大学帽を被り、或人は獺の毛皮を襟に附けた外套を被り、或人は弁護士試験に応じる準備の筆記を入れた包を小脇に挟んで帰る。一歩この病院の門を出ればもう普通の人に混じて路を行くのである。わたしは見送に出られる身で無いけれど、わたしの友達が其れぞれ何う云ふ掩ひ物に身を鎧うて此病院の門から世間へ現れ「仮面」の生活を続けて行くかと云ふ事は大抵想像が附く。どうせ軍人にならない人達だから祖国で重宝がら
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