産屋物語
与謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雛《ひな》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一大|功績《てがら》

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 雛《ひな》の節句の晩に男の子を挙げてまだ産屋に籠《こも》っている私は医師から筆執る事も物を読む事も許されておりません。ところで平生《ふだん》忙《せわ》しく暮しておりますので、こう静かに臥《ふせ》っておりますと何だか独りで旅へ出て呑気《のんき》に温泉にでも入っておるような気が致しますし、また平生《ふだん》考えもせぬ事が色色と胸に浮びます。お医者には内所《ないしょ》で少しばかり書きつけて見ましょう。

 妊娠の煩《わずら》い、産の苦痛《くるしみ》、こういう事は到底《とうてい》男の方に解る物ではなかろうかと存じます。女は恋をするにも命掛《いのちがけ》です。しかし男は必ずしもそうと限りません。よし恋の場合に男は偶《たまた》ま命掛であるとしても、産という命掛の事件には男は何の関係《かかわり》もなく、また何の役にも立ちません。これは天下の婦人が遍《あまね》く負うている大役であって、国家が大切だの、学問がどうの、戦争がどうのと申しましても、女が人間を生むという大役に優《まさ》るものはなかろうと存じます。昔から女は損な役割に廻って、こんな命掛の負担を果しながら、男の方の手で作られた経文や、道徳や、国法では、罪障の深い者の如く、劣者弱者の如くに取扱われているのはどういう物でしょう。縦令《たとい》如何《いか》なる罪障や欠点があるにせよ、釈迦《しゃか》、基督《キリスト》の如き聖人を初め、歴史上の碩学《せきがく》や英雄を無数に生んだ功績は大したものではありませんか。その功績に対して当然他の一切を恕《じょ》しても宜《よろ》しかろうと思います。

 私は産の気《け》が附いて劇《はげ》しい陣痛の襲うて来る度に、その時の感情を偽らずに申せば、例《いつ》も男が憎い気が致します。妻がこれ位苦んで生死《しょうじ》の境に膏汗《あぶらあせ》をかいて、全身の骨という骨が砕けるほどの思いで呻《うめ》いているのに、良人《おっと》は何の役にも助成《たすけ》にもならないではありませんか。この場合、世界のあらゆる男の方が来られても、私の真の味方になれる人は一人もない。命掛の場合にどうしても真の味方になれぬという男は、無始の世から定《さだま》った女の仇《かたき》ではないか。日頃の恋も情愛も一切女を裏切るための覆面であったか。かように思い詰めると唯もう男が憎いのです。
 しかし児供《こども》が胎《たい》を出《い》でて初声《うぶごえ》を挙げるのを聞くと、やれやれ自分は世界の男の何人《だれ》もよう仕遂《しと》げない大手柄をした。女という者の役目を見事に果した。摩耶夫人《まやぶにん》もマリヤもこうして釈迦や基督を生み給《たも》うたのである、という気持になって、上もない歓喜《よろこび》の中に心も体も溶けて行く。丁度その時に痛みも薄らいでいますから、後の始末は産婆に頼んで置いて、疲労から来る眠《ねむり》に快く身を任せます。勿論《もちろん》男の憎い事などは産が済んだ一刹那《いっせつな》に忘れてしまった自分は、世界でこの刹那に一大|功績《てがら》を建てたつもりですから、最早如何なる憎い者でも赦《ゆる》してやるといったような気分になります。

 近頃小説家や批評家の諸先生が、切端《せっぱ》詰った人生という事を申されますが、世の中の男の方が果して産婦が経験するほどの命掛の大事に出会われるかどうか、それが私ども婦人の心では想像が附きません。切端詰った人生といえば「死刑前五分間」に優るものはないように思われますが、産婦は即ちしばしば「死刑前五分間」に面しております。いつも十字架に上《のぼ》って新しい人間の世界を創《はじ》めているのは女です。花袋《かたい》先生が近頃『女子文壇』で「女というものは男子から見《みる》と到底疑問である」と言われたのは御説《おせつ》の通《とおり》であろうと存じますが、しかし「男子と女子とは生殖の途《みち》を外《ほか》にして到底没交渉なのではないか」と言われたのは、私が前に「男が憎い」と申した理由を確めて男子の無情を示す事にはなりますが、「現実を客観する」事の出来る理性の明かな男の方が、人生における婦人の真の価値を闡明《せんめい》せられた事にはなりません。
 婦人がなくて何処《どこ》に人生が成立ちましょう。どうして男子が存在されましょう。この明かなる事実を御覧になる以上、男女の交渉が如何に切実で全体的であるかは申すまでもない事と存じます。「生殖の途を外にして到底没交渉なのではないか」といわれるのは、生殖の途にばかり興味を持っておられるらしい今の一部の文学者の僻《へき》した御考《おかんがえ》ではありますまいか。

 私は男と女とを厳しく区別して、女が特別に優れた者のように威張りたくて申すのではありません。同じく人である。唯協同して生活を営む上に互に自分に適した仕事を受持つので、児を産むから穢《けがら》わしい、戦争《いくさ》に出るから尊いというような偏頗《へんぱ》な考を男も女も持たぬように致したいと存じます。女が何で独り弱者でしょう。男も随分弱者です。日本では男の乞食《こつじき》の方が多いことを統計が示しております。男が何で独り豪《えら》いでしょう。女は子を産みます。随分男が為《な》さっても可《よ》さそうな労働を女が致しております。
 一般の人はともかく、新しい文学者の諸先生が女を弱者とし、これを玩弄物《もてあそびもの》にして、対等の「人」たる価値《ねうち》を御認めにならぬのは、例えば生殖の道においてのみ交渉を御認めになるというようなのは、いまだ古い思想に縛《しば》られておられるか、または大昔の野蛮な時代の獣性を復活して新しくせられるつもりか、どちらにしても真の文明人の思想に実際到達しておられぬからであろうと存じます。

 男を女が軽蔑《けいべつ》する理由がないように、女を男の方が軽蔑せられる訳は到底ないと考えます。釈迦が女の右の脇腹《わきばら》から生れたの、聖霊に感じて基督《キリスト》を生んだの、日を呑《の》んで秀吉《ひでよし》を生んだのと申すのは、女は穢《けがら》わしい物だと思う考えが頭にあって書かれた男の記録でしょうが、それがかえって女を豪《えら》くした妙な結果になっております。日や聖霊に感じて孕《はら》んだり脇腹から生んだりする奇蹟は男の方の永劫《えいごう》出来ない芸ではありませんか。

 女が同盟して子を産む事を拒絶したらどうでしょう。また文学者や新聞記者に一切婦人の事に筆を著《つ》けぬように請求したらどうでしょう。それが聞かれねば一切小説と新聞紙を読まぬ事に決めたらどうでしょう。そういう極端な事でなくても、下女《げじょ》が台所でちょっと間違えて毒な薬を食物に混ぜても男は悲惨な結果になりましょう。男が女と協同し尊敬し合う事を忘れるのは決して名誉でありません。少くとも進歩した文学者は「人」として対等に女の価値を認めて戴《いただ》きたいと存じます。
 と申して、一概に婦人を崇拝したような小説の出るのを願うのではありません。世相を写すのが小説であるなら、女の弱点をも美所をも公平に取扱って戴いて、故意に弱点ばかりを見るというような不真面目《ふまじめ》な態度、態度というよりは作者の人格《ひとがら》を改めて戴きたい。弱点と申しても最《も》っと突込んで観察が深くないと、都《すべ》て男の方の勝手に作られた嘘の弱点になって、真実の女の醜い所が出て参りません。

 一体以前の小説には女の美しい点が沢山書いてありますが、それが私どもから見ると案外女の矯飾《きょうしょく》な弱点を男が美点だと誤解している場合があります。それを読んで女はこうすれば男に気に入るというような矯飾な工夫を増長して、自然内心では男を甘く見るという事も少くないと存じます。これと反対に、少しの弱点を捕《つかま》えてそれが女の性格の全部のように書いてある近頃の小説などを見ては一層|慊《あきた》らなく思います。以前のは一概に女の前に目も鼻もなくなって書かれた小説、近頃のは机の上で外国の小説などから暗示を得て書かれた小説、共に世相の真実には遠《とおざか》っておるかと存じます。私には空想とか想像とかで、尤《もっと》もらしく書かれた作も大好《だいすき》ですが、また殆《ほとん》ど観察ばかりで細かく深く実際の人間を写してある小説も拝見致したい。嘘らしい本当の小説は嫌いです。

 例えば婦人を浅ましい肉的一方に偏した者のように書く小説があります。偶《たま》にはそういう病的な婦人もありましょうが、婦人が都《すべ》てそうであるとは思われません。これは婦人でなくてはなかなか解りにくい事で、男の書かれた物のみでは信用し兼ねます。女の大部分が男の方に理解されぬとは思われませんが、こういう一部一部には女でなくては解らぬ点があるのでしょう。私どもから男の方を見るとやはり一部一部に解らぬ点があります。父親《てておや》が小児《こども》を母と一緒に愛します事などもちょっとその心持が解りません。婦人は懐胎した時から小児のために苦痛をします。胎内で小児が動くようになれば母は一種の神秘な感に打たれてその児に対する親《したし》みを覚えます。分娩の際には命を賭《か》けて自分の肉の一部を割《さ》くという感を切実に抱《いだ》きます。生れた児は海の底に下《お》りて採り得た珠《たま》と申しましょうか、とても比べ物のないほど可愛う思われます。男は小児《こども》との間に精神上にも肉体的にもこういう関係が微塵《みじん》もないのに何故《なぜ》可愛いのでしょうか。

 また小説を読みましても、花袋先生の「蒲団《ふとん》」の主人公が汚らしい蒲団を被《かぶ》って泣かれる辺《あたり》の男の心持はどうしても私どもに解り兼ねます。ああいう小説を読むと、肉感的、動物的であるというのは婦人に下す判断でなくて、かえって男に下すのが正しくはないかなどと考えます。女から見れば、男は種種《いろいろ》の事に関係《たずさわ》りながらその忙《せわ》しい中で断えず醜業婦などに手を出す。世の中の男で女に関係せずに終るという人は殆どありますまい。女は二十《はたち》以前、それから母になって後という者は概《おおむ》ねそれらの欲が少くなり、または殆ど忘れる者さえあると申しますのに、近年男の文学者の諸先生の中には中年の恋と申すような事が行われます。また未成年の男子や六、七十歳の男子までが若い婦人に戯れる実例は目に余るほどあります。

 しかし病的な婦人の除外例を例として女を肉感的だと断ぜられない如く、男をも一概に動物的であるとは申されますまい。「蒲団」の主人公などはやはり病的な男子の除外例でしょう。一体男女の区別と申すものが従来《これまで》のは余りに表面《うわべ》ばかり一部分ばかりを標準にしてはおりませんか。世間には女のような容貌《ようぼう》、皮膚、声遣《こわづか》い、気質、感情を持った男子があり、また男のようなそれらの一切を持っておる婦人があります。即ち子を産む機能を備えた男、文学者、教師、農夫、哲学者となる技倆《ぎりょう》を持った女というような人が随分あるかと存じます。種種《いろいろ》の学理と種種の実験とから調べましたなら男女の区別の標準を生殖の点ばかりに取るのは間違かも知れません。そうすれば男女のいずれかが全く肉感的であるというような事も間違であって、肉感的な人は男女のいずれにも多少あり、もしくは人間は一般に多少肉感的であるという事に帰するかも知れません。小説にはそういう所まで学理と実際の観察とで書かれていなければ進歩したとは申されませんでしょう。

 男の作家に真の女は書けないかも知れぬという説がありますけれど、どうでしょうか。女には幾分女でなければ解《わから》ぬという点も前に申した通りでありましょうが、同じく「人」である女の大部
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