過激派のような暴状を現出するに至りました。露西亜人の性情と境遇からはああした無茶苦茶な、間違った過程を取らねばならなかったのかも知れませんが、それに由って世界の人間は反対な教訓を受取り、どの国民も決してあの暴状を摸《ま》ねようとは考えないのですから、露西亜人は世界人類のために前車の覆轍《ふくてつ》を示したことになります。また露西亜人とても何時《いつ》まで今日のような無紀律な状態が続けられるものでもありません。きっとこの颶風《ぐふう》が過ぎたら、その善良な平和の目的を温健に貫徹するための手腕ある代表者が現れて、世界の期待を空しくしないでしょう。
 翻って我々日本人の現状を見ると、露西亜の過激派のような常規を逸した狂的平和主義者の現れそうな国柄でないのは結構であるとして、その代りに、この世界思潮の急激な転機に対して弾力ある積極的な反応を示す所が殆ど見当りません。人々は戦争以前に比べて何らの旺盛な生活欲も加えず、何らの向上的な生活理想も建てず、何らの進歩した実際生活も開展している様子はないようです。社会の儀表たるべき人々が多数は見苦しい利己主義に専心し、その少数の尊敬に値する人々にしても纔《わずか》に善い意味の個人主義生活に停滞しているに過ぎません。人々はなお戦前の思想を以て生きているのです。これを戦争以来の欧米諸国に漲《みなぎ》る急激な思想の推移に比べると日本人の生活は甚だしく微温な、退屈な、現状維持的な、日和見《ひよりみ》的な、弛緩した外貌を呈しております。あるいは文壇と思想界の一部に人道主義や民主主義が唱えられております。それはきっとそれらの主張者である少数の青年学徒たちやそれを共鳴する一部の青年たちの真実の要求であるでしょうが、それが社会の各部門における代表者たちの生活に何ほどの刺戟と利益とを与えているかと思うと、思想家の主張は実際に活動している社会と今なお概ね没交渉であって、如何に熱心と真理とを以て叫ばれた事でも、それが改革運動となって実現されるに非常に縁の遠いものであることを知って憮然《ぶぜん》たらざるを得ません。この事は毎月毎日の新聞雑誌へ真面目《まじめ》に筆を執っている人たちの斉《ひと》しく実感せられる所であろうと思います。
 私は弛緩した日本人の生活の一例に、現代の世界的大勢に刺戟せられて特に倫理的に緊張したという様子のないのを挙げたく思います。最近に三宅雄次郎《みやけゆうじろう》博士は『東京朝日』紙上で故|乃木《のぎ》将軍の遺書が伯爵|寺内正毅《てらうちまさたけ》氏に由って書き替えられたと公言せられ、また同時に男爵|後藤新平《ごとうしんぺい》氏の私有財産は二千万円に達している、それは後藤氏の労働から収得した正当な報酬であるかと詰問されております。これらの事件が欧米の社会で公言されたならば、二氏の人格は破滅してその首相たり内相たる地位から永久に失脚するか、あべこべに摘発者の三宅博士が裁判沙汰によって公人の生活から放逐せられるかして、いずれかの一方が由々《ゆゆ》しき倫理的制裁を受けずには已《や》まないでしょう。しかし寺内、後藤二氏はこの致命的事件に対して全く知らぬふりをし、同僚の閣臣も、貴衆両議院も、政党も、教育界も一般社会も平然としてこれを看過しております。寺内、後藤二氏非なるか、三宅博士是なるか、それを明らかにすることなくして、この一国の風教に関係ある重大なる問題は、軽々に取扱われてしまうのです。しかし人の母たる私たちに取っては、こういう事実が新聞紙上に現れるごとに、言い知らぬ不快と公憤とを感じます。母の心にも、子供たちの心にも、大官となるに従って、あくまでも利己的生活を遂げるために、如何なる非倫不徳の行為を重ねても――それは一般人に対しては小学の修身読本においてすら厳禁されてある事でありながら――彼らの特権として道徳的にも法律的にも制裁されないものであるということの疑惑が保留されるのを、白日《はくじつ》の下に何人も裁決してはくれないのです。これを思うと、しばしば内閣議長となった政界の名士のカイヨウ氏を現に売国的行為の嫌疑によって厳格な審判を加えつつある仏蘭西《フランス》人の倫理的敏感を羨《うらや》まないでいられません。
 今一つ日本人の生活の弛緩している例には日本人の直接の指導に当る教育界の無気力無精神を挙げたく思います。この事は教育者自身に早く気の附いている所であって、その証拠には、この三、四年間の各教育雑誌ほど不平不満の文字の満載されたものはないのです。教育者たちの中の進歩主義者は、私たちが想像している以上に我国の教育と教育界とを極端に弊害の多いものとして痛論しているのです。それらの文字だけを読んでいると、これだけ多数の不平家が教育界に集っている以上、教育の改革は今にも教育界の内部から爆発しそうに頼もしく思
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