努力すればその放恣《ほうし》を防ぎ得るものであろうと私は想像する。一婦を守らずに娼婦に戯れることは男の理性の不明、意志の弛緩《しかん》として男みずから恥ずべきことであるのみならず、その妻の愛と貞操を凌辱《りょうじょく》するものであり、子孫の徳性と健康とを破壊するものである。男にこの事の反省を促すことは学者、教育者、社会改良家の責任であるが、国家もまた法規を設けて或程度までその責任を分って好かろうと思う。この意味から私は近く政府が学生の売淫を取締ろうとする以上に、有妻の男の買淫をも厳しく取締って欲しい。在来は私娼の現行犯を発見した場合に政府はその娼婦を罰して需要者たる男を寛仮した。もし有妻の男の買淫者に限ってその氏名を公示するようにしたなら、それらの男子に対する一種の有効な制裁となるであろう。有妻の男の買淫を制裁することは、娼婦発生の根本原因の一つを刈除することであり、それだけ娼婦の需要者を減じて、娼婦の営業の過半を衰退せしめる所以《ゆえん》である。内務省が官人と政党との内務省でなくて、現代日本人中の進歩した文明思想を代表しようとする意気のある内務省であるなら、これくらいの英断を行って欲しいものである。
前述の方法で有妻者の買淫を或程度まで減退させることが出来れば、あとは概して独身男子が娼婦の需要者となる訳である。それらの独身男子の性欲が或程度以上に自制しがたいものであり、また人生に享楽の自由が或程度まで許さるべきものでありとすれば、主としてそれらの男子が娼婦を要求することはやむをえない。不徳であるが寛仮さるべき不徳である。但し人間が人間の肉体を買うという事実が、文明生活の理想に乖《そむ》いた不徳であり、公衆の間に多大の羞恥を感ずべき行為であることをあくまでもそれらの独身男子と娼婦とに自覚させることは、併せて衛生思想を自覚させると共に緊要である。このことは国民一般が相|戒《いまし》めねばならぬことは勿論であるが、政府にもまた或程度までこれに対する用意があって欲しい。
ここに到って私は私娼の絶滅を計るよりも先ず公娼の絶滅を計るべきものであると考える。公娼は文字通りに国家の公認した娼婦である。よしや在来の張見世《はりみせ》とやらを撤廃せしめるにしても、その営業組織が余りに公開的であり、露骨であって、人肉を買う男子と、人肉を売る女子とに太切な人間の羞恥心と道徳的情操とを
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