は可能でありながら、男女交際の自由が許されない現代において媒妁結婚の不安を感じて結婚を躊躇《ちゅうちょ》している男があり、媒妁結婚に甘んじるにしてもまだその意味の良縁を得ないで模索している男がある。それらの男も結婚未能者である。こういう結婚不能者と結婚未能者はあながち有妻の男におけるような性欲の過剰と好新欲とからばかりではなく、男の体質として或程度以上に抑制することの困難である性欲の自発から娼婦を必要とするのである。
また供給者たる女の側にも、女自身の経済的無力もしくは労働を嫌う遊惰心や物質的虚栄心から以外に父兄及び良人の経済的不幸や利欲やの犠牲となり、または悪辣《あくらつ》な売淫周旋業者と売淫業者との巧弁悪計に欺《あざむ》かれて身を売るというような原因も加っている。
それから娼婦には更に公娼と私娼の二種がある。そうして一定の場所に集って売淫するものを集娼といい、個々に諸処へ散在して売淫するものを散娼というのであるが、公娼にも巴里《パリイ》のそれのように散娼と集娼とがあり、私娼にも散娼と集娼とがある。
これらの娼婦が倫理的及び衛生的にその女自身を腐敗させるばかりでなく、倫理的及び衛生的に人類を毒するものであることはいうまでもない。この意味において主張せられる廃娼説の正しいことは何人《なんぴと》も認める所である。しかし廃娼説を実行に移そうとすると、娼婦の発生するいろいろの原因から先ず絶滅して掛らねばならないことに何人も気が附く。そうしてそれらの原因が現在の文明程度において一朝一夕に絶滅し得られるものでないことを実証的に知る時は、何人も甚だ遺憾ながら娼婦の存在を或程度まで寛仮《かんか》せねばならないことに一致するのである。
そこで廃娼説は一転して存娼説となり、存娼説は公娼を存して置くか、私娼を存して置くかの二つに分れる。同時に娼婦の発生するような根本原因を出来るだけ刈除《かいじょ》するために社会組織の改善がますます必要になる。社会組織の改善を眼中に置かない存娼説は在来の素朴な廃娼説と共に最早|迂濶《うかつ》の論議たるを免れないように私は思う。
私は有妻者にして公私の娼婦を買う男の尠くないことを知っている。それらの男の性欲の過剰と好新欲とは、男自身に反省して克己と節制の習慣を作ると共に、その旺盛《おうせい》な性欲的能力を他の労働もしくは精神的作業に転換するように
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