であった。
 自分は学校へ行く以外に家の閾《しきい》を跨《また》いだことは物心を覚えて以来良人の許《もと》へ来るまでの間に幾回しかないということの数えられるほど稀《まれ》であった。堺の大浜《おおはま》へさえ三年に一度位しか行かなかった。自分の歌に畿内《きない》の景色や人事を歌うことが多くても、実際京都や大阪へ行ったことは十度にも満たないのであった。それだけにかえって深い印象が今に残っているのかも知れぬ。勿論学校へ行くには女中や雇人の男衆が送り迎えをする。その外の場合は父や親戚《しんせき》の老人や雇人の婆《ばあ》やなどが伴《つ》れて行ってくれる。全く単独に出歩いたことはなかった。
 女学校を出てからは益々家の中でばかり働いていた。厳し過ぎる父母は屋根の上の火の見台へ出ることも許さなかった。父母は娘が男の目に触れると男から堕落させに来るものだと信じ切っていた。甚《はなはだ》しい事には自分の寝室に毎夜両親が厳重な錠を下して置くのであった。雇人の多い家では――殊に風儀の悪い堺の街では――娘を厳しく取締る必要があることは言うまでもないが、自分ほど我身を大切に守ることを心得ている女をそれほどまでに
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