だとして、幸福をこそ感《かん》ずれ、少しもそれについて不安をも懐疑をも挟《さしはさ》んだ事がない。一般の女子及び男子の貞操に関して考えた事はあっても自分の貞操は家常茶飯《かじょうさはん》の事のように思っていた。自分の貞操を軽く見ていたのかというと、軽いも重いもない。てんがそういうことは意識せずに過ぎて来た。そういうことを問題として軽重を考えて見る必要のない感情生活を続けて来たのであった。
 処女時代にも結婚後にも不貞の欲望を起さず不貞の行為を敢《あえ》てしなかったという事が最も貞操を実行したのだとするなら、自分は自然に貞操を実行している女だと言ってよい。
 健康な人がその方の専門家でない限り特に病理を研究しないように、貞操を破ろうとするような内心の要求のなかった自分は、久しい間自分の貞操について顧慮する必要が全くなかった。必定《ひつじょう》今後もその必要があるまい。しかし自分の貞操観とでもいうものを述べようとすれば自分の経験を基礎として筆を進めるより外はない。そこで今日まで何故《なぜ》に自分の貞操が自然に守られて来たかと考えて見ると、初めていろいろの理由のある事に気が附く。
 自分には
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