った。
 しかし貞操とは女子だけの道徳であって、男子は毫《ごう》も自己の貞操を反省しないのみならず、依然として一夫多妻が行われ、屋外に数人の妻を持つのみならず、同一の家に二人以上十数人の妻を貯うる者も少くなかった。女子の権力は再び地に落ち、体《てい》のよい男子の奴隷となった。父の血統を重んずる所から、「女の腹は借り物」と蔑視《べっし》せられ、「子なき女は去る」といって遺棄する事を何とも思わなかった。
 女子は折角《せっかく》芽を出し初めた自動的貞操を蹂躙《じゅうりん》せられて、再び元始的の外圧的貞操に盲従した。何の理由とも知らず、唯そういう運命の者だという迷信に諦《あきら》めを附けて日を送る女が世の中から貞女だと称讃される事となった。
 男は自分の都合の好《よ》いように女を奴隷の位地に置いて対等に人格を研《みが》くことを許さなかった。愚に育てられた女は貞女の名を得て満足し、かくして今日に到った。
 教育に由《よっ》てとにもかくにも理智の目の開《あ》きかけた今日の婦人が従来の外圧的貞操に懐疑を挟《さしはさ》み、貞操の基礎をあらゆる思想の方面と各自の実証とに求めねば満足が出来なくなって来たのはそれだけ文明人の心掛に接近したのである。女子の進歩である。
 この問題は個人個人の問題であって一般婦人を共通に支配し得る客観的基礎というものが容易に発見せられようとは想われない。当分は各自の持っている智識と感情とに由って研究した結果、独得の見解を下してそれを実行するより外はないようである。
 体質の優劣と、境遇の良否と、教育の深浅とで各自の心状態が違う以上、またその心状態の違うということを今日の婦人が意識している以上、客観的な概論に屈従して各自の貞操観を完成する事は出来ない、客観的に学問的基礎を与える事も勿論自分らの内心が要求しているけれど、更にその中心に根強い個人自身の実証を据えるのでなければ満足しがたい。

 次に少しばかり自分が貞操を尊重している現下の心持を述べてみたい。自分はこれを他に強いようとするのでも、他に誇ろうとするのでも毛頭ない。所信を述べてこの問題を討究する資料に供したいばかりである。
 先ず「貞操」という言葉の意味について自分の考を述べると、これには処女としての貞操と、妻としての貞操と二つの区別があるように思われる。昔は他の男を見て心を動《うごか》すものは既に姦淫《かんいん》したのと同じだという考え方もあったが、自分は一概にそうは思わない。或時期に達した処女が異性を見て好悪《こうお》の情を動かし、進んでは恋愛の感情にまで込入《こみい》るのは、食事や睡眠の欲望と共に自然の要求であって、欲望がそれにのみ偏しない限りそれを不正だといって押え附ける理由は一つもない。恋愛は全く自由である。そういう好悪の情や恋愛が自生するので、それに催されて処女が一生の協同生活の伴侶である良人《おっと》を選択する鋭敏なまた慎重な心の眼も開いて行く。但し如何に恋愛関係が成熟していても、終生の協同を目的とする結婚関係に由らずして自己の肉体を男子に許すことをしないのが処女の貞操である。処女の貞操が専ら肉体的であるのと異《ちが》って、結婚後の婦人|即《すなわ》ち妻としての貞操は良人以外に精神的にも肉体的にも他の男子と相愛の関係を生じないことを意味するのである。
 自分がこの稿に筆を附けようとした初《はじめ》に今更の如く気が附いたのは、従来自分が自身の貞操という事について全く無関心でいたことである。自分は生れて唯一度一人の男と恋をして、その男と結婚して現に共棲している事を当然の事だとして、幸福をこそ感《かん》ずれ、少しもそれについて不安をも懐疑をも挟《さしはさ》んだ事がない。一般の女子及び男子の貞操に関して考えた事はあっても自分の貞操は家常茶飯《かじょうさはん》の事のように思っていた。自分の貞操を軽く見ていたのかというと、軽いも重いもない。てんがそういうことは意識せずに過ぎて来た。そういうことを問題として軽重を考えて見る必要のない感情生活を続けて来たのであった。
 処女時代にも結婚後にも不貞の欲望を起さず不貞の行為を敢《あえ》てしなかったという事が最も貞操を実行したのだとするなら、自分は自然に貞操を実行している女だと言ってよい。
 健康な人がその方の専門家でない限り特に病理を研究しないように、貞操を破ろうとするような内心の要求のなかった自分は、久しい間自分の貞操について顧慮する必要が全くなかった。必定《ひつじょう》今後もその必要があるまい。しかし自分の貞操観とでもいうものを述べようとすれば自分の経験を基礎として筆を進めるより外はない。そこで今日まで何故《なぜ》に自分の貞操が自然に守られて来たかと考えて見ると、初めていろいろの理由のある事に気が附く。
 自分には
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング