あろう。好悪の感情はあってもその選択の権利が女子になかった時代であるから、好悪は一の感情として存在するだけで、それを死守する意力即ち貞操と名づけるまでの観念は成立たない訳である。
 これに反して男子には、嫉妬と共に女子を自己一人に服従せしめようとする思想、即ち貞操を女子に強いるという事が生じたに違いない。自分は如此《かくのごと》く直覚する。貞操の起原は男子の威圧からである。女子にあっては本来|被動的《うけみ》のものである。
 男子が一人で同時に幾人の女を独占することは丁度今もその遺風を伝えている土耳古《トルコ》帝の如きものであった。一夫多妻は最も元始的なものである。一夫多妻となれば多妻の間に嫉妬の生ずるのは当然である。女子も遅れて嫉妬を感ずるに到った。
 しかし浮動していた人間が土着する人間となり、「種族的階級」及び「家」という物を生ずるに到って、男女の関係は政治的経済的の関係と共に顛倒《てんとう》したらしい。この時代において男子は女の家に行って婚を求め、結婚した後も男子は女の家に通うのみで別に一家を創《はじ》めて共棲《きょうせい》することはなかった。女の家に入聟《いりむこ》となることもなかった。生れた子女は女の家で育てる。女は子女に対して母権と併せて家長権を持っていた。男は夫としての権利も父としての権利も妻及び子女に対して取ることが出来なかった。「ちち」(乳)という語が古代においては父を意味せずに母の称であった。
 女が家長であるのみならず、引いて族長の権利を握るものも少くなかった。多くの女酋《じょしゅう》は現に『古事記』の神代史に俤《おもかげ》を遺している。
 土着した古代人は戦闘と農耕と漁猟と商估《しょうこ》とを同一人で兼ねていた。まだ分業は起らなかった。後世の如く体質の軟化しなかった女子は男子と共にそれらの事に従った。女兵はまた神代史に俤を遺している。
 母を唯一の親として尊敬する所から総ての女の尊敬せられる風が生じ、また一面に純潔を好む神道の如き宗教上の儀式に処女を神巫《かんなぎ》として奉祀《ほうし》する習慣が出来てから、女子を尊敬することは一通りでなくなった。これは前代の男尊女卑の反動とも見られる。
 前代においては甲の男に掠奪せられ、また乙丙丁の男に掠奪せられて多くの異父の子女を育てた。女がこの時代には、「家」という城壁に拠《よ》って男子に対抗することが出来るようになり、男子の我儘な掠奪を免れることを得たのみならず、反対に男子をして愛情のために歓心を女子に求めしむるに到った。女が男子を選択する位置に就《つ》いた。上古の歌は概《おおむ》ね男子がその切《せつ》ない心を女に伝うる機関であった。
 女が心を許した一人の男子を守ろうとしても、男の心は一時その女に傾くのみで、時が経《た》てば変化して新しい女を好んで遠《とおざ》かって行き、入り代って他の男が女の心を得ようと努める。男が多妻であると同時に女もまた勢い多夫とならざるを得ないのである。
 従って女は依然として異父の子女を一家の中で育てていた。
 しかし家があれば家長として子女を養う家産を尊重せねばならぬ事を感じるに至り、女は経済上の事情から多くの子女を挙げる事を避けたに違いない。また父を異にした子女の間に感情の齟齬《そご》が多くて一家の平和を破る事にも気が附いたに違いない。
 また一方に種族の階級が隔たるほど、女が劣等な男子を聟にすることは恥辱《ちじょく》である。自然男子を選択する風が行われて、前代の如く男子の我儘に従って雑婚することが少くなって行ったに違いない。
 以上、宗教上に処女の純潔を尊ぶ習慣と、家庭の経済その他の事情と、階級的の自重と、この三つの理由から初めて女子が自動的に多くの男子と接することを嫌う思想、即ち貞操の萌芽《ほうが》ともいうものを生じたのであろうと思われる。
 更に次の時代に入っては前代の反動と社会的事情とからして、男女の位地を再び復古の状態に到らしめた。即ち種族との競争の激甚となるに従って、戦士たる男子は時代の優者である。女子は殖産と小児の養育とのために忙殺せられて、最早|古《いにしえ》の如く男子と協力して戦闘に従事することは不可能であった。
 また経済上の事情から多くの家族を同一の家に養うことが出来なくなり、新婚の男女は双方の親から譲られた資産を持寄って別に一家を建て、初めて夫婦共棲の制度を生ずるに到った。これと同時に戦士として時代の優者である男子が女に代って家長となり、父権が母権に代って子女を支配するに到ったのは自然の勢である。
 父権が重んぜられかつ階級が益々《ますます》尊ばれるようになって、初めて父系の血統を神聖視する思想を生じた。女を独占しようとする男子は更に血統を乱すまいとする思想と相待って女子の貞操を一層きびしく要求する事とな
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