「純潔」を貴ぶ性情がある。鄙近《ひきん》にいえば潔癖、突込んで言えばこれが正しい事を好む心と連関している。この性情が自分の貞操を正しく持《じ》することの最も大きな理由になっているように考えられる。唯《た》だ貞操の上ばかりでなく、自分の今日までの一切はこの性情が中心になって常に支配しているように考えられる。自分の郷里は歴史と自然とこそ美くしい所に富んでいても、人情風俗は随分堕落した旧《ふる》い市街であり、自分の生れたのは無教育な雇人の多い町家である。従って幼い時から自分の耳や目に入る事柄には如何《いかが》わしい事が尠《すくな》くなかった。自分が七、八歳の頃から自分だけは異った世界の人のような気がして周囲の不潔な事柄を嫌い表面《うわべ》ではともかく、内心では常に外の正しい清浄な道を行こうとしていたのは、厳正な祖母や読書の好きな父の感化にも因るとはいえ、この「純潔」を貴ぶ性情からである。
自分は十一、二歳から歴史と文学書とが好きで、家の人に隠して読み耽《ふけ》ったが、天照大御神《あまてらすおおみかみ》の如き処女天皇の清らかな気高《けだか》い御一生が羨《うらやま》しかった。伊勢《いせ》の斎宮《さいぐう》加茂《かも》の斎院の御上《おんうえ》などもなつかしかった。自分の当時の心持を今から思うと、穢《きたな》い現実に面していながら飛び離れて美的に理想的に自分の前途を考え、一生を天使のような無垢《むく》な処女で送りたいと思っていたのであった。
また自分の心持には早くから大人《おとな》びている所があった。投げやりな父に代り病身な母を助けて店の事を殆《ほとん》ど一人で切盛《きりもり》したためもあるが、歴史や文学書に親《したし》んだので早く人情を解し、忙《せわ》しく暮す中にも幾分それを見下して掛かる余裕が心に生じていたからであったらしい。
それで大人びていた自分は、恋愛などの心持も文学書に由って十二歳の頃から想像することが出来た。『源氏物語』の女の幾人に自分を比較して微笑《ほほえ》んでいた事もあった。しかし異性に対する好悪の情はあったにせよ実際に自分自身の恋愛と名づくべき感情は二十三の歳まで知る機縁が自分の上になかった。常に自分の周囲の男女は都《すべ》て不潔な人間だという気がして、それで書物の中の男女にばかり親んでいた。
一般に処女の恋愛は異性に対する好悪の情が好奇心に一歩を進めた所から生ずるという人がある。しかし自分には何らのそういう好奇心も感じなかった。自分の経験でいえば、性欲というべきものの意識は処女時代にない。性欲の記事を読んでも、男子のように肉体的に刺激せられる所は少しもない。これは男子と生理関係の相違が大変にあるらしい。或る特別な境遇に育った処女は知らぬこと、普通の処女は自分と同じであろうと想われる。専門学者から見たなら、処女の恋愛や男子に対する好き嫌いの感情にもその根柢には性欲が潜在しているかも知らぬが、処女には全くその意識が欠けているのではないか。もし処女にもあれば、性欲に対する好奇心があるだけであろう。それとても目に見えて肉体の衝動から自発するのではなかろうと想われる。そうして自分にはその好奇心に類似するものすら欠けていた。
自分が「純潔」を貴ぶ所から堺《さかい》の街《まち》の男女の風俗のふしだらな事を見聞きしてそれを厭《いと》い、また読書を好む所から文学書の中の客観的な恋愛に憧《あこが》れて、自分の感情を満足させていたのが、処女時代の貞操を守り得た二つの理由であったが、厳格な家庭が実世間の男子と交際する機会を与えなかったのもまた一つの理由であった。
自分は学校へ行く以外に家の閾《しきい》を跨《また》いだことは物心を覚えて以来良人の許《もと》へ来るまでの間に幾回しかないということの数えられるほど稀《まれ》であった。堺の大浜《おおはま》へさえ三年に一度位しか行かなかった。自分の歌に畿内《きない》の景色や人事を歌うことが多くても、実際京都や大阪へ行ったことは十度にも満たないのであった。それだけにかえって深い印象が今に残っているのかも知れぬ。勿論学校へ行くには女中や雇人の男衆が送り迎えをする。その外の場合は父や親戚《しんせき》の老人や雇人の婆《ばあ》やなどが伴《つ》れて行ってくれる。全く単独に出歩いたことはなかった。
女学校を出てからは益々家の中でばかり働いていた。厳し過ぎる父母は屋根の上の火の見台へ出ることも許さなかった。父母は娘が男の目に触れると男から堕落させに来るものだと信じ切っていた。甚《はなはだ》しい事には自分の寝室に毎夜両親が厳重な錠を下して置くのであった。雇人の多い家では――殊に風儀の悪い堺の街では――娘を厳しく取締る必要があることは言うまでもないが、自分ほど我身を大切に守ることを心得ている女をそれほどまでに
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