せずともよいであろうに、自分の心持を領解してくれない両親の態度をあさましいと思って、心の内で泣いたことも多かった。
自分は生来《うまれつき》外出《そとで》を好まなかった所へ父母が其様《そんな》であるから、少しは意地にもなって、全く人目に触れない女になってしまおう、誰が勧めても頼んでも店の薄暗い物蔭以外には一歩も出まいと決めていた。そうでなくても、兄は東京に学んでいる。妹は京都に学んでいる。弟はまだ土地の中学にいる。店を初め一家の締め括《くく》りのために自分はどうしても両親を助けて家にいなければならなかった。人はお嫁に行《いっ》てから家政に苦労するのに、自分は反対に小娘の時から舅姑《しゅうとしゅうとめ》のような父母に仕えてあらゆる気苦労と労働とをしていた。そんな境遇にいたので異性と恋をするというような考も機会も全くなかった。従って貞操を汚すような男の誘惑というものも一切知らなかった。
それからこれは何時《いつ》かの『早稲田文学《わせだぶんがく》』へ載せた雑感の中にもちょっと書いた事であるが、自分は幼い時から動《やや》もすると死の不安に襲われて平生《へいぜい》少しの病気もない健かな身体《からだ》でありながらかえって若死をする気がしてならなかった。それがため他人の嫁入|沙汰《ざた》を聞いても他人は他人、自分は自分の運命があるという風に思って、結婚などをする自分ではないと堅く信じていた。『源氏物語』のような文学書を読んで作中の恋には自分の事のように喜憂することがあっても、それは夢の世界、空想の世界に遊んでいる自分に過ぎなかった。
また十七、八歳から後は露西亜《ロシヤ》のトルストイの翻訳物などを読んで、結婚は罪悪である、人種を絶やして無に帰するのが人間の理想だというような迷信がかなり久しい間自分を囚《とら》えていたので、自分は固《もと》より、偶《たまた》ま逢《あ》う同じ街の友人にも非結婚主義を熱心に勧めたりなんかした。そういうような事に由っても自分は男子の誘惑から隔った遠い彼方《かなた》に住んでいた。
親戚の者から縁談を勧める事もあったが、自分が汚らわしいという風に眉《まゆ》を顰《ひそ》めるので、自分の前でそんな話を持出す人も後には全くなくなった。親たちも家になくてならぬ娘であるから、自分が結婚を望む気振《けぶり》もないのを善《い》い事にして格別勧めようともしなかった。そうして自分は出来るだけ従順に働いて、忙《せわ》しい家業に心を尽していた。空想の別世界にも住んでいるが、現実の常識生活にも一点の批を打たれないようにしようというのが自分のその頃の痩《やせ》我慢であった。父が株券などに手を出して一時は危くなった家産を旧《もと》通りに挽回《ばんかい》することの出来たのも、大抵自分が十代から二十歳《はたち》の初へかけての気苦労の結果であった。そういう一家の危機を外に学んでいる兄や妹に今日が日までも一切知らせずに済《すま》すことが出来たのであった。
自分の処女時代は右のようにして終った。思いも寄らぬ偶然な事から一人の男と相知るに到って自分の性情は不思議なほど激変した。自分は初めて現実的な恋愛の感情が我身を焦《こが》すのを覚えた。その男と終《つい》に結婚した。自分の齢《とし》は二十四であった。
恋をし結婚をして以後の自分の観《み》る世界は処女の時に比べて非常に濶《ひろ》い快活なものとなった。娘の頃の自分の心持には僻《ひが》んだり、偏したり、暗かったりした事の多かったのに気が附いた。結婚をせねば領解の出来ない事柄の多いことも知った。
それから今日まで妻として貞操に何の欠けた所もない生活を続けて来ているのは自分ら夫婦にとって東から日が昇るのと斉《ひと》しく当然《あたりまえ》の事としている。一夫一婦主義を意識して実行しているのでも、『女大学』に教えてあるような旧道徳に圧抑せられているのでもない。つまり初めの恋愛状態が益々根を張り枝を伸して発達して行くのに過ぎない。良人と自分とは天分も教育も性情も異《ちが》っている。それでいろいろの彩料を交ぜながら何処《どこ》かに引緊《ひきしま》って調和が取れている絵のように二人の心持がしっくりと合っている所に、自分の感情は歓喜と幸福とを得ているらしい。勿論、不足と不安とは自分らの生活の上に絶間もないが、その不足と不安の生活を共にしているという事が、自分らの歓喜でも幸福でもある。動揺の乏しい単調な生活であったなら自分らはあるいは早く倦《あ》いてしまっていたかも知れない。
同じ芸術に従事して生活の思想にも形式にも類似の多いという事が二人の心の平衡《へいこう》を保って行かれる一つの原因であろう。また子供に対する愛情を斉しくしていることも一つの原因であろう。また良人を師として常に教えられ、親友以上の親友として、不
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