私の貞操観
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)細緻《さいち》
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(例)数層|甚《はなはだ》しい
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従来は貞操という事を感情ばかりで取扱っていた。「女子がなぜに貞操を尊重するか。」こういう疑問を起さねばならぬほど、昔の女は自己の全生活について細緻《さいち》な反省を下すことを欠いていた。女という者は昔から定められたそういう習慣の下に盲動しておればそれで十分であると諦《あきら》めていた。
けれども今後の女はそうは行かない。感情ばかりで物事を取扱う時代ではなくなった。総《すべ》てに対して「なぜに」と反省し、理智の批判を経て科学的の合理を見出《みいだ》し、自己の思索に繋《か》けた後でなければ承認しないという事になって行くであろう。
感情をあながちに斥《しりぞ》けるのではない。女が唯一の頼みとしていた感情は、いわば元始的の偏狭《へんきょう》と、歴史的の盲動とで海綿状に乱れた物であった。その偏狭は時に可憐だとして小鳥の如くに男子から愛せられる原因とはなったが、大抵はその盲動と共に女子と小人とは養いがたしとて男子から蔑視《べっし》せられる所以《ゆえん》であった。今は女の目の開く世紀である。その感情を偏狭より脱して深大豊富にすると同時に、その盲動を改めるために、それに軸または中心となる理智を備え、理智に整理せられつつ放射状に秩序ある感情の明動をしようとする時が来た。いわゆる女子の自覚とはこれを基礎として出発し、自己を卑屈より高明に、柔順より活動に、奴隷より個人に解放するのが目的である。
男子はこういう意味の感情の修練、自己の解放を古くから気附いていた。希臘《ギリシャ》印度の古い哲学より欧洲近世の科学に到るまで、総て要するに男子が自ら全《まった》かろうとする努力の表現である。女子は殆《ほとん》どこれらの文明に与《あずか》っていなかったといってよい。
初心《うぶ》な女だといわれることは最早何の名誉でも誇りでもない。それは元始的な感情の域に彷徨《ほうこう》して進歩のない女という意味である。低能な女という意味である。
気が附いて見ると、男子は大股《おおまた》に濶《ひろ》い文明の第一街を歩
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