淫《かんいん》したのと同じだという考え方もあったが、自分は一概にそうは思わない。或時期に達した処女が異性を見て好悪《こうお》の情を動かし、進んでは恋愛の感情にまで込入《こみい》るのは、食事や睡眠の欲望と共に自然の要求であって、欲望がそれにのみ偏しない限りそれを不正だといって押え附ける理由は一つもない。恋愛は全く自由である。そういう好悪の情や恋愛が自生するので、それに催されて処女が一生の協同生活の伴侶である良人《おっと》を選択する鋭敏なまた慎重な心の眼も開いて行く。但し如何に恋愛関係が成熟していても、終生の協同を目的とする結婚関係に由らずして自己の肉体を男子に許すことをしないのが処女の貞操である。処女の貞操が専ら肉体的であるのと異《ちが》って、結婚後の婦人|即《すなわ》ち妻としての貞操は良人以外に精神的にも肉体的にも他の男子と相愛の関係を生じないことを意味するのである。
自分がこの稿に筆を附けようとした初《はじめ》に今更の如く気が附いたのは、従来自分が自身の貞操という事について全く無関心でいたことである。自分は生れて唯一度一人の男と恋をして、その男と結婚して現に共棲している事を当然の事だとして、幸福をこそ感《かん》ずれ、少しもそれについて不安をも懐疑をも挟《さしはさ》んだ事がない。一般の女子及び男子の貞操に関して考えた事はあっても自分の貞操は家常茶飯《かじょうさはん》の事のように思っていた。自分の貞操を軽く見ていたのかというと、軽いも重いもない。てんがそういうことは意識せずに過ぎて来た。そういうことを問題として軽重を考えて見る必要のない感情生活を続けて来たのであった。
処女時代にも結婚後にも不貞の欲望を起さず不貞の行為を敢《あえ》てしなかったという事が最も貞操を実行したのだとするなら、自分は自然に貞操を実行している女だと言ってよい。
健康な人がその方の専門家でない限り特に病理を研究しないように、貞操を破ろうとするような内心の要求のなかった自分は、久しい間自分の貞操について顧慮する必要が全くなかった。必定《ひつじょう》今後もその必要があるまい。しかし自分の貞操観とでもいうものを述べようとすれば自分の経験を基礎として筆を進めるより外はない。そこで今日まで何故《なぜ》に自分の貞操が自然に守られて来たかと考えて見ると、初めていろいろの理由のある事に気が附く。
自分には
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