たと人の走り歩く音が高くして居るのです。私は何時《いつ》の間《ま》にか座つて居ました。蚊帳も一隅が外《はづ》されて三角になつて居ました。灯の明《あか》く点《とも》つた隣の茶の間で、
「袢纏《はんてん》を出しとくなはれ、早う頼みます。」
と云つて居るのは番頭でした。柳行李《やなぎかうり》から云はれた物を出して居るのは妹の乳母《うば》でした。私はまた何時《いつ》の間《ま》にか蚊帳を出て、定七《さだしち》の火事装束をする傍《そば》に立つて居ました。定七が弓張提灯《ゆみはりちやうちん》を取つて茶の間を出ようとしますと、帯のやうなものを手に持つて見せながら乳母は、
「まありやん、まありやん。」
と云ひました。私は子供心にも乳母は恐ろしさに舌が廻らなくなつて居るのであらう、待つてくれと云ふつもりであらうと思ひました。母が傍へ来まして、
「母様《かあさん》は姉様《ねえさん》のお家《うち》が危いから行つて来ます。お父様《とうさん》ももうおいでになつたのです。家《うち》は大丈夫だから安心しておいで。」
と云ひました。そのうち私は店へ歩いて行きました。土間の戸が二方とも開けられてあつて、外の通りをお祭の晩の賑やかな灯明《ひあか》りが思はれる程、沢山の人々は手に手に提灯を持つて走つて行くのでした。見舞に来て従兄と話をして居る人も三四人ありました。私は火元を二町北の半町程西寄りになつた具清《ぐせい》と云ふ酒屋であると知りました。火の見台で兄弟や奉公人の大勢が、話し合ふ声のするのをたよりに、私は暗い二階を手捜《てさぐ》りで通つて火の見台へ出ました。火の色には赤と黄と青が交つて居ました。半町四方程をつつんで真直《まつすぐ》に天を貫く勢で上つて居ました。火の子はまかれる水のやうに近い家々の上へ落ちるのでした。女中の顔も、丁稚《でつち》の顔も金太郎のやうに赤く見えました。具清の家と私の姉の家とは道を一つ隔てた地続きなのでしたから、私は姉の家の蔵が、今にも焼けるのではないかと思つて、悲んで居ました。この時もう月は落ちて上の空にはありませんでした。階下《した》へ降りますと御飯から立つ湯気の香《か》が夜の家いつぱいに満ちて匂つて居ました。これは竹村《たけむら》と云ふ姉の家へ贈る弁当の焚出《たきだ》しをして居るからなのでした。
「具清の家の人は一人も逃げて居ない。皆死んだのらしい。」
「妹さんが女中に助けられて飛び出したと云ふことを誰かが云ふてた。外《ほか》は皆死んだのやろけど。」
こんな気味の悪いことを私は聞かないでは居られませんでした。人はことを大きく噂にするものであるとは、子供でももう知つて居ましたが、先刻《さつき》火の見で誰かが、具清は金持だから、大きい家が焼ける位のことは何でもないと云つて居たやうな、そんなのんきなことはもう思つて居られないと思ひました。
具清の家の住居《すまゐ》と酒蔵の幾つかが焼けただけで、他家《よそ》へ火は伸びずに鎮火しました。ほい/\と門《かど》を走る人は、皆|先刻《さつき》と反対の方を向いて行くやうになりました。
「焼けた死骸に長い髪が附いて居たので娘さんと云ふことが解《わか》つた。」
「丁稚の死骸が可哀想やつた。」
道行く人は口々にこんなことを云つて行きました。具清の家は両親のない二人の娘さんが主人だつたのです。その娘さんを番頭が余りに大切にして、家の戸閉りなどを厳重にしすぎてあつたために、誰も外へは出られなかつたのださうです。鍵を持つて居る老番頭が、最初に死んだので、外《ほか》の人はどうしやうもなかつたらしいと云ふことでした。けれど三十位の一人の女中は、妹娘さんをやつとのことで伴《つ》れ出したと云ふことでした。けれど高い塀から飛んだので、大怪我《おほけが》をして居ると云ふことでした。
朝になつてから、私の父母は姉の家を引き上げて来ました。
「竹村さんに別条がなくておめでたう御座《ござ》います。」
と番頭が云ひますと、
「おかげでめでたいうちや。」
と父は云ふのでしたが、私は竹村の蔵が焼けてもよかつた、具清の娘さんが黒焦《くろこげ》の死骸などにならない方がよかつたと悲しがつて居ました。具清の死んだ若い女中の話も可哀想でした。前の晩に母親に送られて、実家からその主家へ帰つたのは、死に帰つたのだと云はれる丁稚も可哀想でなりませんでした。眼病をして居て逃げ惑つたらしいと云ふ若い手代《てだい》も哀れでした。具清の家は大きくて、城のやうな家なのでしたが、丁度《ちやうど》夏で酒作りをする蔵男《くらをとこ》の何百人は、播州《ばんしう》へ皆帰つて居た時だつたのださうです。娘さんの箪笥《たんす》が幾つも並んで焼けた所には、友染《いうぜん》の着物が、模様をそつくり濃淡で見せた灰になつて居たのが、幾重ねもあつたとか人は云ひました。焼跡は何年も何
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