年も囲ひもせずそのままで置かれてありました。夏の夕方などに散歩して居ますと、焼けた壁の小山のやうになつた中から、酒の香《か》が立つやうなことも幾年かの後《のち》にまでありました。終《しま》ひには雑草が充満《いつぱい》に生えて居ました。
 火事の時分に、大阪地方ではへらへら踊《をどり》と云ふ手踊の興業が流行《はや》つて居ました。赤い頬かぶりをして袴《はかま》を穿《は》いた女が扇を持つて並んで踊をするのです。へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処《どこ》でも堺《さかひ》の大火と云ふやうな芸題《げだい》で、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。道を歩いて居て、その無惨な看板の眼に入るたびに、私は逃げて走りました。
 具清の妹さんが、忠義な女中に手を引かれて医師の家へ通ふ姿を、私は火事の後《あと》でよく見ました。美しい人でした。


私の生ひ立ち 七 狐の子供

狐の子供

 三阪《みさか》先生は私を三年級から四年級へ掛けて教へて下すつた先生でした。人一倍|羞恥《はにかみ》の強い私には、小学校から女学校を通じて十幾年間に、真底から馴れて愛して頂くことが出来たのは、この先生だけでした。その優しい三阪先生を上に頂いて居《を》ります時に、私は思ひ出しても不快な脅迫者を前に置いた日送りをして居ました。先生はもとより夢にも御存じのないことです。それはまだ三年生の時のことでした。時間が来て教場へ入るために砂利の敷かれた前の庭で私等は列を作るのでしたが、その時まで運動に夢中になつて居る人達なのですから、それがかなり入り乱れて混雑なものになるのです。私はある日のその時に友達の足を踏みました。その人は靴を穿《は》いて居て私は草履穿《ざうりばき》だつたのです。
「あつ、痛《い》た、鳳《ほう》さん。」
 はつと思つてその人の顔を見ますと、それは柴田《しばた》と云ふ子でした。
「ひどい、これ見なはれ。」
 私がおづおづと柴田の前へ出した足を見ますと、それ程強く踏んだとも感じませんでしたのに、靴の先の釘が少し上へ上つて居ました。
「御免なさいな。」
と私は頭を下げました。
「先生。」
と柴田は先生をお呼びして、そして私の不都合を訴へました。こんなに迄と云つてその靴の先も見せました。
「靴がそんなになる程とは少しひどい。」
と先生は私を見てお云ひになりました。けれどもそれは唯《ただ》原告を宥《なだ》めるのに有効なために私へお云ひになつただけでしたから、私自身は罰らしい苦しい気持でお受けしませんでした。私はそのために一層柴田さんに済まない気がしたのでしたから、時間後に更に詫《あやま》らうとしました。
「堪忍《かに》して上げない。」
と柴田は云ふのですから私は仕方がないとそんな場合には思はなければなりませんのに、要のない努力をして心を貫かうとしました。
「ほんなら私の云ふこと聞きまつか。」
「聞きます。何んでも。」
 かう云ひながらも私は限りない不安を感じて居ました。
「あんた毎日おやつを貰ふでせう、お菓子やなんぞ。」
「はあ。」
「それを残して置いてその翌日《あくるひ》学校へ持つて来て私に頂戴《ちやうだい》。毎日よ。」
「はあ。」
 私はよくも考へずに認諾を与へてしまひました。
 私はその日からおやつを半分より食べられないことになりました。半紙で小く包んで翌朝学校へ持つて行つて柴田に渡しました時、その人はどんなに喜んだか知れません。私は半月程の後《あと》にもう義務は済んだかと思ひますので、
「もう堪忍《かに》して下さつて。」
と問ひました。
「もうお菓子を持つて来るのが厭《いや》なんだつか。」
 柴田は恐い顔をした。
「厭と云ふのぢやありませんけれど。」
「鳳さん、私が先生に云ふたらあんた困ることがありますよ。」
「何です。」
「あんた学校へお菓子を持つて来ていゝのだすか。あんたはそないに悪いことしてなはるやないか。」
 私は貢物のやうにして毎日柴田の手へ運んで居る物は、学校で厳禁されて居るものであると云ふことを此《この》時まで気附かずに居たのでせう。どんなに柴田のこの脅迫は私を苦しめたものであつたか知れません。私はものもよう云はずにじつと相手の顔を眺めて居ました。
「悪いことしてなはるのやろ。先生に知れたらどないなことになるか知つてますか。」
 私は泣き出しました。そしたら柴田は背《せな》を撫でました。
「泣かんでもええわ。私云へへんわ。あんたさへもつと何時《いつ》迄もお菓子をくれたなら。」
「また学校へ持つて来るのですか。」
 私は呆れながら云ひました。
「かうしますわ、これから私が毎日あんたの家《うち》へ貰ひに行くわ。三時半頃にきつと拵《こしら》へておいとくなはれ。」
「さう、そんならよろしいわ。」
 私はまたうまうまとこんな約束をさせら
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