》の話をして下さいましたが、
「南さんのお家《うち》にだけはあるでせう。」
こんなことをお云ひになりました。私はこの時受くべき理由なき侮辱を私達は受けたと胸が鳴りました。ところが、
「私の家《うち》にそんなもの御座いません。先生。」
かう淡泊に南さんの答へたのを聞いて、私は瞬間の厭《いや》な心持が一掃されました。私はそれから一層南さんをなつかしく思ふやうになりました。その学校では、何か式をしたりするときには、先生から生徒へ、
「皆さんのお家《うち》の庭に花が咲いて居ましたら、それを少しづつ持つて来て下さい。」
こんな注文をなさいました。堺は古い昔から商業地になつて居まして、店や工場を重《おも》にして建築した家が多いのですから、庭はあつて常磐木《ときはぎ》の幾本かは大抵の大きい家にはあるとしても、底花の木や草花を養ふ日光が入りやうもありませんから、こんな時に生徒は花屋へ駆け附けるより外《ほか》の方法はなかつたのです。母に頼んで五|銭《せん》程の支出をして貰ひまして菊の花の二三本、春なら芍薬《しやくやく》の一つぐらゐを持つて行くやうな人ばかりでしたが、そんな時に南さんの家からは大きい車に花の切枝《きりえだ》を積んで下男に学校へ曳かせて来ました。南さんは行者久《ぎやうじやきう》さんと云ふ盲目《めしひ》で名高い音曲《おんぎよく》の師匠の弟子の一人でした。小いうちから琴も三味線も胡弓《こきゆう》も上手だつたのです。その師匠の大ざらへに沢山|刺繍《ぬひ》のした着物を着た南さんが三四人の附添ひと一緒に舞台へ行くのを会場の廊下で見ました時、私は南さんをお姫様のやうな人だと思ひました。学校の成績《せいせき》も私より南さんの方が確かに好《よ》かつたと思つて居ます。南さんは私によく、
「私の府会議員の叔父さんはおどけものですよ。私をからかつてばかりいらつしやるのですよ。」
「そのお方の家《うち》は何処《どこ》。」
「私の家《うち》の中よ、別になつて居ますけれど。それからね、その叔母さんもあるのですよ、その人はものを云はない人よ。叔母さんは母様《かあさん》が私を大阪へ伴《つ》れていらつしやる時には本家へ来て留守番をして下さるの。」
こんな話をして聞かせました。またその父や母に就《つ》いての暖い噂も始終聞かせてくれました。兄弟のない一人子《ひとりご》と云ふものの羨しさを私の子等と一緒
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