》つて居た時分に、南さんはおけしの中を取つて蝶々髷《てふ/\まげ》に結つて居ました。ですからもう差櫛《さしぐし》が出来たり、簪《かんざし》がさせたり、その時分から出来たのでした。南みち子と言ふ一人の生徒を羨まないのは、学校の中でも極めて小い組の人達だけだつたであらうと思ひます。どの先生も南さんを大事な生徒としておあつかひになるのでしたが、生駒《いこま》さんと云ふ校長先生にはそれが甚しかつたやうでした。私の小学校は千人近い生徒を収容して居て、大きい校舎を持つて居ましたが、その応接室は卓《ていぶる》を初め卓掛《ていぶるか》け、書物棚、花瓶までが南家の寄附になるものだと校長が生徒を集めて云つてお聞かせになつたこともありました。南さんは家の通称を孫太夫《まごだいふ》と云ふ大地主の一人娘だつたのです。南さんの家のある所は堺《さかひ》の街ではなく向村《むかふむら》と云ふのですが、それはいくらも遠い所ではなく、ほんの堀割《ほりわり》一つで街と別になつて居る村なのです。南さんの家は薄黄《うすき》の高い土塀の外を更に高い松の木立がぐるりと囲つて居ました。また庭の中には何蓋松《なんがいまつ》とか云ふ絵に描いたやうな松の木や、花咲く木の梢《こずゑ》の立ち並んで居るのが外から見えました。野からその南さんの家の見えますことは一二|里《り》の先へ行つても同じだらうと思はれる程大きいものでした。私の同級生の幾人かは日曜日毎に南さんの家へ遊びに行きました。私はそんな人達から一尺程の金魚の沢山沢山居ると云ふ池やら、綺麗な花の咲いた築山《つきやま》やら、梯子段《はしごだん》の幾つにも折曲つたと云ふ二階や、中二階、離座敷の話をして貰ふのが楽みでした。けれど私は人並を越した恥しがりでしたから一度も自身で行つて見たことはありません。南さんには何時《いつ》も一人の女中が附いて居ました。その時分の生徒が茶番《ちやばん》さんと云つた小使《こづかひ》の部屋で女中はお嬢さんのお人形を造つたりして何時《いつ》も待つて居ました。帯をだらりに結んで、白丈長《しろたけなが》を掛けた島田の女中は四五年の間|何時《いつ》も変らぬ同じ人だつたやうに思つてましたが、真実《ほんたう》は幾度か変つた別の女中だつたのかも知れません。
ある時に先生は、
「あなた方|室暖《まぬく》めと云ふものを知つて居ますか。」
と云ふことから暖炉《すとーぶ
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