《てらまち》へ出ます。大小路に次ぐ大きい町幅の所で、南へ七八町伸びて居ますが、寺ばかりと云つてよい程の街ですから静かです。向うの突当りが南宗寺《なんしゆうじ》です。千利久が建てたと云ふ茶室があります。私など少し大きくなりましてからは、折々お茶の会に行つたりしました。その隣は大安寺《だいあんじ》で私の祖母の墓があつたのでしたが、今では父も母も其処《そこ》へ葬られてしまひました。旧《もと》は納屋助左衛門《なやすけざゑもん》と云ふ人の家だつたのださうです。南宗寺の智禅庵《ちぜんあん》の丘の下を東から堀割が廻つて流れて居まして海へ出るやうになつて居ます。其《その》海辺は出島《でじま》と云ひます。もとより漁師ばかりが住んで居る所です。蘆が沢山生えて居る所です。蘆原《あしはら》とも云ひます。堀割の向う岸からはもう少しづつ松が生えて居まして、ずつと向うが浜寺《はまでら》の松原になるのです。木綿《もめん》を晒す石津川《いしづがは》の清い流もあります。私はこんな所に居て大都会を思ひ、山の渓間《たにま》のやうな所を思ひ、静かな湖と云ふやうなものに憧憬して大きくなつて行きました。
私の見た少女 南さん
南さん
南《みなみ》みち子さんは丈の短い襟掛羽織《えりかけばおり》を着た人でした。今から三十年に近い昔の其《その》頃の風俗は、総ての子供が冬はさうした形の襟掛羽織を着て居たに違ひありませんのに、私が特に南さんの羽織の短かさばかりを、その人のなつかしさと共に何時《いつ》も思ひ出さずに居ないのは、南さんの着た羽織は誰のよりも綺麗《きれい》なものだつたからだらうと思ひます。外《ほか》の子は双子《ふたこ》や綿秩父《めんちゝぶ》や、更紗《さらさ》きやらこや、手織木綿《ておりもめん》の物を着て居ます中で、南さんは銘仙《めいせん》やめりんすを着て居ました。藍《あゐ》がちな紫地に小い紅色の花模様のあつたものや、紺地に葡萄茶《えびちや》のあらい縞《しま》のあるものやを南さんの着て居た姿は今も目にはつきりと残つて居ます。それに南さんは色の飽《あく》まで白い、毛の濃い人でしたから、どんなものでも似合つて見えたのであらうと思はれます。目の細い、鼻の高い、そしてよく締《しま》つた口元で、唇の紅《あか》い人でした。南さんは大分《だいぶ》に大きくなるまでおけし頭でした。併《しか》し私がまだおたばこぼんを結《ゆ
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