ます。柳の木が並木とは云へないほどちらほらと植わつて居ます。大小路の東西十町の真中を十字形に通つた南北の通《とほり》が大道《だいだう》と云はれる所です。北は大和橋に続いて居ます。和歌山県の方へ大阪から続いた国道です。大小路の西の堀割《ほりわり》に掛つた吾妻橋《あづまばし》を渡ると、其処《そこ》には南海鉄道の停車場があるのです。堀割の水はもう海へ近い所ですから、引潮の頃にはまるでありませんが、さし潮になると小船をふかふかと動かすやうな浪も立つて居ます。停車場の横に泉洲紡績《せんしうばうせき》の工場があります。赤錬瓦塀の上に地獄のやうな硝子《がらす》かけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くづを附けた哀れな工女が街々から通つて行く所は其処《そこ》なのです。その前は新田《しんでん》と云つて、埋立地の田畑になつて居ます。停車場から南へ行くと堀割が折れて海へでる所にかかつた勇橋《いさみばし》に出ます。此処《ここ》から北西へかけての海辺を北坡戸《きたばと》と云ふのです。橋の南を真面に行きますと大浜《おほはま》の海岸通になります。旭館《あさひくわん》と云ふ富豪の遊場所《あそびばしよ》の石垣の長いのを通り越すと、もう漁師の家や貝細工を売る小家《こいへ》が並んで居ます。真直に真直に行けば海の中へ突出た燈台に出るまでその道は続いて居ます。昔は大きな船の入つた港だつた堺の海は、新大和川が川上の大和から無遠慮に砂を押し流して来るので、年々に浅くなるばかりで、今は貝を拾ふのに適した波らしい波も立たない所になつたのです。海辺には松も何も生えて居ません。大津《おほつ》の崎が淡路《あはぢ》とすれすれになつて見える遠い景色を好《い》いと見て居るだけの所です。旅館の建ち並んだ後《うしろ》に昔のお台場《だいば》があります。品川のと同じ式で唯《たゞ》海の中にないだけです。春は菫《すみれ》が沢山咲いて居ます。旭館の隣で、何とか云ふ名の小い丘の下に附いた道を曲つて街へ入つて来ますと、其処《そこ》の大道の角に私の家《うち》があります。大道をまた一町南へ行きますと宿院《しゆくゐん》と云ふ住吉神社のお旅所《たびしよ》があります。私の通つた小学校は宿院小学校と云つて、その境内《けいだい》の一部にあるのです。芝居や勧工場《くわんこうば》があつて、堺では一番繁華な所になつて居るのです。小学校の横を半町も東へ行きますと寺町
前へ 次へ
全40ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング