女学校へ行つて居る頃に、一度街で柴田に逢ひました。柴田は島田を結《ゆ》つて居ましたが顔は昔のあの顔でした。


私の生ひ立ち 八 たけ狩

たけ狩

 和泉《いづみ》の山の茸狩《たけがり》の思ひ出は、十二三の年になりますまで四五年の間は一日も忘れることが出来なかつた程の面白いことでした。他家《よそ》の子には唯事《たゞごと》のやうなそんなことも、遊山《ゆさん》などの経験の乏しい私には、珍しくて嬉しくてならなかつたのです。誰も誰も堺《さかひ》の子供が親達や身内の人に伴はれてする春の浜行きも、私は殆どしたことがありませんでした。私は友染《いうぜん》の着物なども着ないうちに、身体《からだ》の方が大きくなつてしまふことが多かつたのです。
 あの茸狩は牡丹《ぼたん》模様の紫地の友染に初めて手を通した時です。帯は緋繻子《ひじゆす》の半巾帯《はんはゞおび》でした。大戸は下されたままで、横町《よこまち》に附いた土間の四枚の戸が開けられ、外に待つて居る車の傍《そば》へ歩んで出ました頃、まだ街は真暗でした。四時頃だつたと後《のち》に母は云つてました。真先《まつさき》の車は父で、それには弟が伴はれて乗つて居ました。私は母の膝の横に居ました。お菊《きく》さんと云ふ知つた女の人と、その子のお政《まさ》さん、私の従兄《いとこ》二人、兄、番頭、その外《ほか》の人は忘れましたが何でも十何輌と云ふ車でした。両側の家の軒燈《けんどう》のまたたいて居る大道《だいだう》を、南へ南へと引いて行かれるのでした。湊《みなと》の橋を渡りますと正面に見える大きい家で鶏《にはとり》が啼《な》きました。何時《いつ》の間《ま》にか私は母に倚《よ》りかかつて眠りました。
「これ、これ大鳥様《おほとりさま》のお社《やしろ》だよ。」
 肩を叩かれて私が目を見上げますと左手に大きい鳥居《とりゐ》があるのでした。母は車上で手を合せて拝《はい》をして居ました。まだ薄暗いのですが、奥の方へ立ち並んで燈籠の胴が、ほのぼの白く木《こ》の間《ま》から見えました。その暁《あかつき》の大鳥神社の鳥居の大きかつたことは、全《まる》で人間世界を超越したもののやうに九歳《こゝのつ》の私には思はれたのです。帰りには上までもつとよく眺めませうと通つてしまつた後《あと》では思つて居ました。自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。何
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