戸の外まで
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)向うの角《かど》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]クトルマツセ町へ
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 自室から出ましてね、廊下の向うの隅に腰を掛けて車丁に、
『わたしは巴里へ行くのよ。』
 と云ひました。
『ええ、奥様。』
 と笑ひながら頤の先に髯のある車丁は笑つてましたよ。一昨日までの露西亜人、今朝迄の独逸人とは比べものにならないやうな優しい車丁ですよ。四時に巴里へ着くことに決つて居ても、巴里が終点であることが解つて居てもやつぱしね、すうと巴里を抜け通つてしまつて、地中海の海岸まで伴れて行かれやあしないかと思ふんでせうね、心配なんでせうね。
 廊下の大きい硝子窓の向うには、ばたばたと血を落して、汽車の行くのと反対の方へ飛んで行く何かのあるやうに雛罌粟が咲いて居るんです、国境からはもうずうつとかうなの。矢車草もあるんですよ。
 ノオルド・エキスプレスは綺麗な汽車なんですよ。かう云ふ厚硝子張りの一等車ばかりがつながつてるんですものね。それにわたしのやうな、昨日からあと二日位食事はしないで置かうと、必要上考へなければならなかつたやうな女が乗つてるんですものね、可笑しいわけですわねえ。
 わたしの卓の上にはまだ化粧品や何かがしまはれずに置いてあるのですわ、暇つぶしがなくなつては困りますからね。書物なんかはもう皆片附けてしまつたのです。書物と云つてもね、太抵もう西部利亜の間で三四度も読んだもので、もう味の薄くつまらないものになつたものばかしでしたもの。
 わたしは又席へ帰つて来て、随分沢山な荷物だと思つて、頭の上から足の廻りを見廻しましたよ。
 川が見え出しましたの、岸の低いねえ、一寸手を伸してもしやぶしやぶと水なぶりが出来さうな川。向うの堤には小枝の多い円い形の木が並んで居ましたよ。かなりいろんな船が居りますのよ。隅田川の半分くらゐの川だけれど。甲板の黄色く塗つたのや、赤い色の沢山使はれたのや、紫がかつた黒い船やとかねえ。人も随分乗つて遊んでるの、向う岸の処々には船と同じやうな美くしい色をした小家があるんです。その向うがずうと薄お納戸色にぼけた街の家並なんでせう。一番向うは空の下を低い山が
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