的の姑が甚だ稀《まれ》に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たちについて、私は一概に憎悪のみを以て対しようとは思わない。これは私が姑という者を持たない境遇にいて、姑に対する気兼苦労の実感を経験しないからでもあろうが、私は憎悪の外に気の毒なと思う感が附随している。なぜなら彼らの大多数の姑たちは一方には教えられざる婦人であり、一方には老後の索寞《さくばく》、月経閉鎖期前後の悲哀、その他種種の事情から精神の平衡を欠き、もしくはヒステリイ症に罹《かか》っている婦人だからである。
 数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干《ひから》びている。社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通《そつう》しなければ社会は順調に進歩しない訳である。年齢の差などがあって少しは疏通しにくい部分があるのは免れないにしても、青年と共に現代の思想に浸ることを怠《おこた
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