と伺っていると、あとに何も残らなかった昔のことが思い出されて恐ろしくなります」
 こう言ってまた薫は涙ぐんだ。

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見し人のかたしろならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせん
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 これを例の冗談《じょうだん》にして言い紛らわしてしまった。

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「みそぎ河《がは》瀬々にいださんなでものを身に添ふかげとたれか頼まん
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『ひくてあまたに』(大ぬさの引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ)とか申すようなことで、出過ぎたことですが私は心配されます」
「『つひによるせ』(大ぬさと名にこそ立てれ流れてもつひの寄る瀬はありけるものを)はどこであると私が思っていることはあなたにだけはおわかりになるはずですし、その話のほうのははかない水の泡《あわ》と争って流れる撫物《なでもの》でしかないのですから、あなたのお言葉のようにたいした効果を私にもたらしてくれもしないでしょう。私はどうすれば空虚になった心が満たされるのでしょう」
 こんなことを言いながら薫が長く帰って行こうとしないのもうるさくて、中の君は、
「ちょっと泊りがけでまいっている客も怪しく思わないかと遠慮がされますから、今夜だけは早くお帰りくださいまし」
 と言い、上手《じょうず》に帰りを促した。
「ではお客様に、それは私の長い間の願いだったことを言ってくだすって、にわかな思いつきの浅薄な志だと取られないようにしていただけば、私も自信がついて接近して行けるでしょう。恋愛の経験の少ない私には、女性の好意を求めに行くようなことなどは今さら恥ずかしくてできなくなっています」
 薫はこう頼んで帰って行った。姫君の母は薫をりっぱだと思い、理想的な貴人であると心でほめて、乳母《めのと》が左近少将への復讐《ふくしゅう》として思いつき、たびたび勧めたのを、あるまじいことだと退けていたが、あの風采《ふうさい》の大将であれば、たまさかな通い方をされても忍ぶことができよう、自分の娘は平凡人の妻とさせるにはあまりに惜しい美が備わっているのに、東国の野蛮な人たちばかりを見て来た目では、あの少将をすら優美な姿と見て婿にも擬してみたと、くちおしいまでにも破れた以前の姫君の婚約者のことをこの女は思うようになった。
 よりかかっていた柱にも敷き物にも残った薫のに
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