し去ることが躊躇《ちゅうちょ》される薫であった。しかも明るくなっていくことは恐ろしくて、
「お近づきしてかえってまた飽き足りません感を与えられましたが、もう少しおなじみになりましてからお恨みも申し上げることにしましょう。お恨みというのは形式どおりなお取り扱いを受けましたことで、誠意がわかっていただけなかったことです」
こんな言葉を残したままあちらへ行った。そして宿直《とのい》の侍が用意してあった西向きの座敷のほうで休息した。
「網代《あじろ》に人がたくさん寄っているようだが、しかも氷魚《ひお》は寄らないようじゃないか、だれの顔も寂しそうだ」
などと、たびたび供に来てこの辺のことがよくわかるようになっている薫の供の者は庭先で言っている。貧弱な船に刈った柴《しば》を積んで川のあちらこちらを行く者もあった。だれも世を渡る仕事の楽でなさが水の上にさえ見えて哀れである。自分だけは不安なく玉の台《うてな》に永住することのできるようにきめてしまうことは不可能な人生であるなどと薫は考えるのであった。薫は硯《すずり》を借りて奥へ消息を書いた。
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橋姫の心を汲《く》みて高瀬さす
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