源氏物語
御法
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)煩《わずら》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)始終|煩《わずら》って

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(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]なほ春のましろき花と見ゆれどもとも
[#地から3字上げ]に死ぬまで悲しかりけり  (晶子)

 紫夫人はあの大病以後病身になって、どこということもなく始終|煩《わずら》っていた。たいした悪い容体になるのではなかったが、すぐれない、同じような不健康さが一年余りも続いた今では目に立って弱々しい姿になったことで、院は非常に心痛をしておいでになった。しばらくでもこの人の死んだあとのこの世にいるのは悲しいことであろうと知っておいでになったし、夫人自身も人生の幸福には不足を感じるところとてもなく、気がかりな思いの残る子もない人なのであるから、こまやかに思い合った過去を持っていて自分の先に欠けてしまうことは、院をどんなに不幸なお心持ちにすることであろうという点だけを心の中で物哀れに感じているのであった。未来の世のためにと思って夫人は功徳になることを多くしながらも、やはり出家して今後しばらくでも命のある間は仏勤めを十分にしたいということを始終院へお話しして、夫人は許しを得たがっているのであるが、院は御同意をあそばさなかった。それは院御自身にも出家は希望していられることなのであるが、夫人が熱心にそうしたいと言っている時に、御自身もいっしょにそれを断行しようかというお心もないではないものの、いったん仏道にはいった以上は、仮にもこの世を顧みることはしたくないというお考えで、未来の世では一つの蓮華《れんげ》の上に安住しようと約束しておいでになる御夫婦であっても、この世での出家後の生活は全然区別を立てたものにせねばならぬという御本意から、こうして病弱な身体《からだ》になってしまった夫人と、離れておしまいになることは気がかりで、悟道にはいった新生活も内から破れていくことを院は恐れて躊躇《ちゅうちょ》をしておいでになるのである。結局は深い考えもなく簡単に出家してしまう人よりも、道にはいることが遅れるわけである。院の同意されぬのを見ぬ顔にして尼になってしまうことも見苦しいことであるし、自分の心にも満足のできぬことであろうからと思って、この点で夫人は院をお恨めしく思った。また自分自身も前生の罪の深いものであろうと不安がりもした。以前から自身の願《がん》果たしのために書かせてあった千部の法華《ほけ》経の供養を夫人はこの際することとした。自邸のような気のする二条の院でこの催しをすることにした。七僧の法服をはじめとして、以下の僧へ等差をつけて纏頭《てんとう》にする僧服類をことに精撰して夫人は作らせてあった。そのほかのすべてのことにも費用を惜しまぬ行き届いた仏事の準備ができているのである。内輪《うちわ》事のように言っていたので、院はみずから計画に参加あそばさなかったが、女の催しでこれほど手落ちなく事の運ばれることは珍しいほどに万事のととのったのをお知りになって、仏道のほうにも深い理解のあることで夫人をうれしく思召した院は、御自身の手ではただ来賓を饗応《きょうおう》する座敷の装飾その他のことだけをおさせになった。音楽舞曲のほうのことは左大将が好意で世話をした。宮中、東宮、院の后《きさき》の宮、中宮《ちゅうぐう》をはじめとして、法事へ諸家からの誦経《ずきょう》の寄進、捧《ささ》げ物なども大がかりなものが多いばかりでなく、この法会《ほうえ》に志を現わしたいと願わない世人もない有様であったから、華麗な仏会の式場が現出したわけである。いつの間にこの大部の経巻等を夫人が仕度《したく》したかと参列者は皆驚いた。長い年月を使った夫人の志に敬服したのである。花散里《はなちるさと》夫人、明石《あかし》夫人なども来会した。南と東の戸をあけて夫人は聴聞の席にした。それは寝殿の西の内蔵《うちぐら》であった。北側の部屋《へや》に各夫人の席を襖子《からかみ》だけの隔てで設けてあった。
 三月の十日であったから花の真盛《まっさか》りである。天気もうららかで暖かい日なので、快くて御仏《みほとけ》のおいでになる世界に近い感じもすることから、あさはかな人たちすらも思わず信仰にはいる機縁を得そうであった。薪《たきぎ》こる(法華《ほけ》経はいかにして得し薪こり菜摘み水|汲《く》みかくしてぞ得し)歌を同音に人々が唱える声の終わって、今までと反対に式場の静まりかえる気分は物哀れなものであるが、まして病になっている夫人の心は寂しくてならなかった。明石夫人の所へ女王《にょおう》は三の宮にお持たせして次の歌を贈った。

[#ここから2字下げ]
惜しからぬこの身ながらも限りとて薪《たきぎ》尽きなんことの悲しさ
[#ここで字下げ終わり]

 夫人の心細い気持ちに共鳴したふうのものを返しにしては、認識不足を人から譏《そし》られることであろうと思って、明石はそれに触れなかった。

[#ここから2字下げ]
薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法《のり》ぞはるけき
[#ここで字下げ終わり]

 経声も楽音も混じっておもしろく夜は明けていくのであった。朝ぼらけの靄《もや》の間にはいろいろの花の木がなお女王の心を春に惹《ひ》きとどめようと絢爛《けんらん》の美を競っていたし春の小鳥のさえずりも笛の声に劣らぬ気がして、身にしむこともおもしろさもきわまるかと思われるころに、「陵王《りょうおう》」が舞われて、殿上の貴紳たちが舞い人へ肩から脱いで与える纏頭《てんとう》の衣服の色彩などもこの朝はただ美しくばかり思われた。親王がた、高官らも音楽に名のある人はみずからその芸を惜しまずこの場で見せて遊んだ。上から下まで来会者が歓楽に酔っているのを見ても、余命の少ないことを知っている夫人の心だけは悲しかった。
 昨日は例外に終日起きていたせいか夫人は苦しがって横になっていた。これまでこうしたおりごとに必ず集まって来て、音楽舞楽の何かの一役を勤める人たちの容貌《ようぼう》や風采《ふうさい》にも、その芸にも逢《あ》うことが今日で終わるのかというようなことばかりが思われる夫人であったから、平生は注意の払われない顔も目にとまって、少しのことにも物哀れな気持ちが誘われて来賓席を夫人は見渡しているのであった。まして四季の遊び事に競争心は必ずあっても、さすがに長くつちかわれた友情というもののあった夫人たちに対しては、だれも永久に生き残る人はないであろうが、まず自分一人がこの中から消えていくのであると思われるのが女王の心に悲しかった。宴が終わってそれぞれの夫人が帰って行く時なども、生死の別れほど別れが惜しまれた。花散里夫人の所へ、
 
[#ここから2字下げ]
絶えぬべき御法《みのり》ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを
[#ここで字下げ終わり]

 と書いて紫の女王は送った。

[#ここから2字下げ]
結びおく契りは絶えじおほかたの残り少なき御法なりとも
[#ここで字下げ終わり]

 これは返事である。供養に続いて不断の読経《どきょう》、懺法《せんぼう》などもこの二条の院で院はおさせになるのであった。祈祷《きとう》は常におさせになっていたが、たいした効果も見えないために、わざわざ遠い寺々などでさせることにもお計らいになった。
 夏になると夫人は暑気のためにも死ぬようになることが多かった。病名も定まらぬ程度のものであるが、ただ衰弱がひどかった。堪えがたい苦しみをするというのでもない。女房たちの心にも、どうおなりになるのであろう、このまま危篤になっておしまいになるのではなかろうかという不安が生じてきて、惜しく悲しくばかりそれらの人々も思って歎いていた。こんなふうであったから院は中宮を御所から二条の院へ退出おさせになった。当分東の対《たい》にお住みになるはずであったから、いったんこの西の対へおはいりになることにより、お迎えの儀式なども定例どおりにしていながらも、この宮のますますお栄えになる未来の日までを見ずに終わるかというように夫人は悲しんだ。お供をして来た役人たちの姓名の披露《ひろう》される時にも、だれがいる、かれも来ていると、女王は深く耳にとまる気がした。高官たちも多数に来ていたのである。しばらくぶりに、実母子以上の愛情が相互にある二人の女性はしめやかに語り合っておいでになった。院がはいっておいでになったが、
「今夜は巣を追われた鳥のようでかわいそうな私はどこかで寝ることにしよう」
 と言って、他の室《へや》へ行っておしまいになった。起きていた夫人の姿を御覧になったことがおうれしそうであったが、それはしいてよいように見てみずから慰めておいでになるのにすぎないのである。
「離れた所では、こちらからあちらへ歩いてお帰りになることがたいへんですし、私もまたあちらへ上がることはもうできなくなっていますから」
 と夫人は言っていて、中宮はしばらくこの病室のあるほうの対におとどまりになることになった。明石《あかし》夫人もこちらへ来てしんみりとした会話が日々かわされた。女王の心の中では頼みたく、言っておきたく思うことが幾つかあったが、賢そうに死後のことを今から言うように取られるのを恥じて、そうした問題には触れないのであった。ただ人生のはかなさをおおように、言葉少なに、しかも軽々しくはなしに話すのが、露骨に死期の近いことを言うよりもどんなに心細い気持ちでいるかを思わせた。女王《にょうおう》は孫である宮たちを見ても、
「あなたがたがどうおなりになるだろうと、将来が見たいような気がしましたのも、私のようにつまらない者でいながら、知らず知らず命を惜しんでいたわけでしょうか」
 こんなことを言って涙ぐむその顔が非常に美しかった。なぜそんなふうにばかり感ぜられるのであろうとお思いになって、中宮はお泣きになった。遺言のようにはせず話の中などで時々、
「長く私に仕えてくれました人たちの中で、たいした身寄りのないようなかわいそうなだれだれなどを、私がいなくなりましたあとで、あなたから気をつけてやってください」
 などというほどにしか死後のことは言わないのである。
 病室で読経《どきよう》の始められる日になってから中宮は東の対へお移りになった。三の宮は幾人もの宮様がたの中にことに愛らしいお姿でそばへ遊びにおいでになるのを、病苦の薄らいだ時などに女王は前へおすわらせして、女房たちの聞いていないのを見ると、
「私がいなくなりましたら、あなたは思い出してくださるでしょうね」
 などと言うのであったが、宮は、
「恋しいでしょう。私は御所の陛下よりも中宮様よりもお祖母《ばあ》様が好きなんだ。いらっしゃらなくなったら私は悲しいでしょうよ」
 とお言いになって、目をこすって涙を紛らしておいでになる宮のお姿のおかわいいために、夫人は微笑をして見ているのであったが、目からは涙がこぼれた。
「あなたが大人におなりになったら、ここへお住みになって、この対の前の紅梅と桜とは花の時分に十分愛しておながめなさいね。時々はまた仏様へもお供えになってね」
 と言うと、宮はおうなずきになりながら、夫人の顔を見守っておいでになったが、涙が落ちそうになったので、立ってお行きになった。手もとでお育てしたために夫人はこの宮と姫君にお別れすることをことに悲しく思っていた。
 ようやく秋が来て京の中も涼しくなると、紫夫人の病気も少し快くなったようには見えるのであるが、どうかするとまたもとのような容体にかえるのであった。まだ身にしむほどの秋風が吹くのではないが、しめっぽく曇る心をばかり持って夫人は日を送った。中宮《ちゅうぐう》は御所へおはいりにならず、もう少しここにおいでになるほうがよいことになるでしょうと女王はお言いしたいのであるが、死期を予感しているように賢がって聞こえぬかと恥ずかしく思われもしたし、御所からの御催促の御使《
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