かく》するものがあって不愉快であったが、若君は少しも臆《おく》せずに進んで出て試験を受けた。昔学問の盛んだった時代にも劣らず大学の栄えるころで、上中下の各階級から学生が出ていたから、いよいよ学問と見識の備わった人が輩出するばかりであった。文人《もんにん》と擬生《ぎしょう》の試験も若君は成績よく通ったため、師も弟子《でし》もいっそう励みが出て学業を熱心にするようになった。源氏の家でも始終詩会が催されなどして、博士《はかせ》や文士の得意な時代が来たように見えた。何の道でも優秀な者の認められないのはないのが当代であった。
 皇后が冊立《さくりつ》されることになっていたが、斎宮《さいぐう》の女御《にょご》は母君から委託された方であるから、自分としてはぜひこの方を推薦しなければならないという源氏の態度であった。御母后も内親王でいられたあとへ、またも王氏の后《きさき》の立つことは一方に偏したことであると批難を加える者もあった。そうした人たちは弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》がだれよりも早く後宮《こうきゅう》にはいった人であるから、その人の后に昇格されるのが当然であるとも言うのである。双方に味方が現われて、だれもどうなることかと不安がっていた。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮と申した方は今は式部卿《しきぶきょう》になっておいでになって、当代の御外戚として重んぜられておいでになる宮の姫君も、予定どおりに後宮へはいって、斎宮の女御と同じ王女御で侍しているのであるが、他人でない濃い御親戚関係もあることであって、母后の御代わりとして后に立てられるのが合理的な処置であろうと、そのほうを助ける人たちは言って、三女御の競争になったのであるが、結局|梅壺《うめつぼ》の前斎宮が后におなりになった。女王の幸運に世間は驚いた。源氏が太政大臣になって、右大将が内大臣になった。そして関白の仕事を源氏はこの人に譲ったのであった。この人は正義の観念の強いりっぱな政治家である。学問を深くした人であるから韻塞《いんふた》ぎの遊戯には負けたが公務を処理することに賢かった。幾人かの腹から生まれた子息は十人ほどあって、大人になって役人になっているのは次々に昇進するばかりであったが、女は女御のほかに一人よりない。それは親王家の姫君から生まれた人で、尊貴なことは嫡妻の子にも劣らないわけであるが、その母君が今は按察使大納言《あ
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