源氏物語
関屋
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逢坂《あふさか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)翌年|常陸介《ひたちのすけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]逢坂《あふさか》は関の清水《しみづ》も恋人のあつき涙もな
[#地から3字上げ]がるるところ       (晶子)

 以前の伊予介《いよのすけ》は院がお崩《かく》れになった翌年|常陸介《ひたちのすけ》になって任地へ下ったので、昔の帚木《ははきぎ》もつれて行った。源氏が須磨《すま》へ引きこもった噂《うわさ》も、遠い国で聞いて、悲しく思いやらないのではなかったが、音信をする便《たより》すらなくて、筑波《つくば》おろしに落ち着かぬ心を抱きながら消息の絶えた年月を空蝉《うつせみ》は重ねたのである。限定された国司の任期とは違って、いつを限りとも予想されなかった源氏の放浪の旅も終わって、帰京した翌年の秋に常陸介は国を立って来た。一行が逢坂《おうさか》の関を越えようとする日は、偶然にも源氏が石山寺へ願ほどきに参詣《さんけい》する日であった。京から以前|紀伊守《きいのかみ》であった息子《むすこ》その他の人が迎えに来ていて源氏の石山|詣《もう》でを告げた。途中が混雑するであろうから、こちらは早く逢坂山を越えておこうとして、常陸介は夜明けに近江《おうみ》の宿を立って道を急いだのであるが、女車が多くてはかがゆかない。打出《うちで》の浜を来るころに、源氏はもう粟田山《あわたやま》を越えたということで、前駆を勤めている者が無数に東へ向かって来た。道を譲るくらいでは済まない人数なのであったから、関山で常陸の一行は皆下馬してしまって、あちらこちらの杉《すぎ》の下に車などを舁《かつ》ぎおろして、木の間にかしこまりながら源氏の通過を目送しようとした。女車も一部分はあとへ残し、一部分は先へやりなどしてあったのであるが、なおそれでも族類の多い派手《はで》な地方長官の一門と見えた。そこには十台ほどの車があって、外に出した袖《そで》の色の好みは田舎《いなか》びずにきれいであった。斎宮《さいぐう》の下向《げこう》の日に出る物見車が思われた。源氏の光がまた発揮される時代になっていて、希望して来た多数の随
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