いと」
 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫《た》き込めた源氏の衣服の香が顔に吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どうなることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、それから襖子をしめて、
「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟《おきて》に許されていない恋に共鳴してこない。
「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑《けいべつ》してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあなた様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」
 こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省さす力があった。
「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょう、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋に盲目になっています」
 まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹《なよたけ》のようで、さすがに折ることはできなかった。真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐《かれん》であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。
 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを見て、
「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむのが恨めしい」
 と、源氏が言うと、
「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなたの熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですからせめてなかったことだと思ってしまってください」
 と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発しているのであった。
 鶏《とり》の声がしてきた。家従たちも起きて、
「寝坊をしたものだ。早くお車の用意をせい」
 そんな命令も下していた。
「女の家へ方違《かたたが》えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」
 と言っているのは紀伊守であった。
 源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。
「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」
 泣いている源氏が非常に艶《えん》に見えた。何度も鶏《とり》が鳴いた。

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つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
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 あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。女は己《おのれ》を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人《おっと》のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。

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身の憂《う》さを歎《なげ》くにあかで明くる夜はとり重ねても音《ね》
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