ぞ泣かれける
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 と言った。ずんずん明るくなってゆく。女は襖子《からかみ》の所へまで送って行った。奥のほうの人も、こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。
 直衣《のうし》などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄《こうらん》によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立《ついたて》の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている女房もあった。残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わったおもしろい夏の曙《あけぼの》である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的にひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言《こと》づて一つする便宜がないではないかと思って顧みがちに去った。
 家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶《はんもん》があるはずであると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。
 このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身にとってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しいはてに源氏は紀伊守を招いた。
「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったからそばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」
 と言うのであった。
「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」
 その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。
「その姉さんは君の弟を生んでいるの」
「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望んでいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」
「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」
「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子《むすこ》と若い継母は親しくせぬものだと申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」
 と紀伊守《きいのかみ》は答えていた。
 紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶《えん》な風采《ふうさい》を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手《じょうず》に嘘《うそ》まじりに話して聞かせると、そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿《せんさく》をしようともしない。
 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、

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見し夢を逢《あ》ふ夜ありやと歎《なげ》く間に目さへあはでぞ頃《ころ》も経にける

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安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。
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 とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。
 翌日源氏の所から小君《こぎみ》が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。
「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」
 と姉が言った。
「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」
 そう言うのから推《お》せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。
「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいけない。お断わりができなければお邸《やしき》へ行かなければいい」
 無理なことを言われて、弟は、
「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」
 と言って、そのまま行った。好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。小君が来たというの
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