に甘味《おい》しければ毎晩でもお食べよ。」
 母親はじつと娘を見ながらかう云ひました。
「母様《かあさん》がお作りになつたからおいしいのよ。」
「なんの、おまへ自身で作つて御覧、もつとおいしいよ。」
 お幸はこの時ふと母の労力を無駄使《むだづか》ひをさせたと云ふやうな済まない気のすることを覚えました。
「私《わたし》が持つて行く。」
 皮の載つた盆を下げようとする久吉をかう留めてお幸は自身で台所へ行きました。
「母さん、暗くて見えませんけれど、何かして置く用が此処にありませんか。」
 お幸はやや大きい声でかう云ひました。
「姉さんは元気が出たね。」
と久吉が云ひました。
「何も用はないよ。」
「母さん、母さん、僕は云つてしまひますよ。姉さんはね、中村さんで晩の御飯を食べさせて貰《もら》はないのだつて、他《ほか》の女中が意地わるをするのだつて、中村さんの音作がすつかり僕に云つてくれましたよ。母さん、もう姉さんを中村さんへ手伝ひに遣《や》るのをよしなさいよ。」
 弟の母に語るのをお幸はじつと台所で聞いて居ました。
「お幸や、さうなのかえ。」
「ええ。」
 お幸は目に涙を溜《た》めて灯《ひ》の下へ出て来ました。お近は袖口をくけかけて居た仕事をずつと向うへ押しやりました。
「何故《なぜ》黙つて居ました。自身の身体《からだ》のことを自身で思はないでどうするお幸。」
「はい。私《わたし》は外の仕事の見つかるまでと思つて辛抱して居ましたけれど。」
「外の仕事つて。」
「私《わたし》今晩帰り途《みち》で大津の郵便局の郵便脚夫の見習に十五以上の男を募集すると云ふ貼紙《はりがみ》を見ましたから、母さん、私は男の姿になつて髪なんかも切つて雇はれに行かうかしらと云ふやうなことも考へて来たのです。」
とお幸は思ひ切つて云ひました。
「おまへにそんな働きが出来ますか。」
「私《わたし》はよく歩きますし、丈夫ですし。」
「それだけの理由《わけ》で郵便屋さんにならうと言ふの。」
「いゝえ。私《わたし》は世の中の手助けになる仕事ですからして見たいのです。」
「今の仕事は。」
「女中と云ふものが主人の家に大勢居ることは一層お金持を怠惰者《なまけもの》にするだけのもので、世の中の為《た》めにはならないと私《わたし》は気が附きました。さうぢやないでせうか。」
「それはさうかも知れない。」
「私《わたし》は自分の出来ることの中で一番いい仕事をしなければならないと思ひます。」
「十五になると大分理屈が解《わか》るね。」
 お近はかう云つて久吉の方を見ました。
「姉さんはえらいや。僕なんかは学校を出たら百姓になるのが一番いいことだと思つて居た。」
と久吉は云ひました。
「お幸は百姓をどう思ふの。」
「まだそれは考へません。」
「それを考へないことがあるものですか。母様《かあさん》が若し間違つたことをして居たらおまへは注意をしてくれなければならないぢやないの。母様《かあさん》のして居ることは百姓ですよ。私《わたし》は世の中へ迷惑をかけないで暮して行くと云ふことが世の中の為《た》めだと思つて居るよ。自身で食べる物を作つて私は自分やおまへ達の着物を織つて居ます。自分の出来ないものは仕事の賃金に代へて貰つて来ると云ふこの暮しやうが私には先《ま》づ一番間違ひのない暮しやうだと思つて居るよ。」
 お近のこの話をお幸は両手を膝《ひざ》の上で組合せてうやうやしく聞いて居ましたが。顔を上げて、
「母さん、田や畑はもう少し余計に貸して貰へるのですか。」と言ひました。
「小作人が少くて困つて居るのですもの、貸して呉《く》れますとも。」
「髪を切つてお芝居のやうなことをするよりも私《わたし》のすることは、母様《かあさん》、あつたのですよ。」
「何のことですか。」
「野仕事です。百姓です。」
「さうかね。おまへが郵便局へ行きたいと云ふから、私《わたし》は男になつたりなどしないで、局長に逢《あ》つて女の儘《まま》で、採用《つか》つて貰ふことを一生懸命ですればいいと思つて居たよ。私には百姓がいいと云つただけで、おまへを百姓にしようと思つて居るのぢやないよ。」とお近は言ひました。
「姉さん百姓におなりよ。三人で百姓をすると決めませうよ。」と久吉は云ふのでした。
「私《わたし》は何でも出来ますが百姓でも出来ます。」
「それではなつて見るがいいよ。ねえお幸、今日|角造《かくざう》さんに聞くと三本松の家を山仁《やまに》さんはまた堺の商人へ売るさうだよ。私《わたし》はそれがいいと思つて居るよ。おまへ達は知らないがそれはそれは無駄に広い家なんだからね。あれを真実《ほんたう》に人間仲間の役に立てようと思ふなら大勢の使ふものにしなければならないのだからね。堺へ持つて行つて幾つかの家に分けて拵へたらいいだらうよ。併《し
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