《さかひ》の街の呉服屋やら雇人口入所《やとひにんくちいれじよ》の広告やら何時《いつ》でも貼《は》られて居るのです。
「おや、こんなものがある、」
お幸はその中に新しい貼紙《はりがみ》の一つあるのを見出《みいだ》したのです。それは大津《おほつ》の郵便局で郵便配達見習を募集するものでした。
「学歴は小学校卒業程度の者だつて、十五歳以上の男子つて、まあそんなに小《ちひさ》くてもいゝのかしら、日給は三十五銭。」
お幸はこんなことを口で言ひながら二三分間その貼紙の前で立つて居ました。
「男ぢやないから仕方がない。」
暫《しばら》くの間お幸は前よりも早足ですた/\と道を歩いて居ましたがまた何時の間にか足先に力の入らぬ歩きやうをするやうになりました。魔の目のやうな秋の月はお幸のやうな常識に富んだ少女をも空想な頭にせずには置きませんでした。
「馬鹿《ばか》な。」
と思ひ出したやうに云つた後でもお幸の空想は大きく延びるばかりでした。お幸は髪を切つて男装をして大津の郵便局へ雇はれて行かうかとそんなことを思つて居るのです。母さんが承知をしないかも知れない、かう思ふとお幸の目には、そつと髪を切らうとして居る所へ母親が現《あらはれ》て来て、あの小楠公《せうなんこう》の自殺を諌《いさ》めたやうなことを、母親が切物《きれもの》を持つた手を抑へながら云ふやうな光景が見えて来ました。そして駄目《だめ》だと思ひました。
「けれども」
お幸はまた最初の考へに戻《もど》つて、大津は此処から云へば三里も隔つて居ない所だけれども、泉南泉北《せんなんせんぼく》と郡が別れて居て村の人などはめつたに往来しない。何方《どちら》かと云へば海の仕事をする人と工場の多い大津と云ふ街をこの村の人は異端視して居るのだ。だから私《わたし》が其処で男に化けて郵便脚夫をしても誰《だれ》も気の附く人はあるまい。自分の働きで自分の食べて行くのは一緒でも今の女中奉公よりその方がどんなにいいか知れない。お金持の奴隷になる訓練を受けてそれが私の何にならう、私はもう断然と外の仕事に移つてしまふのだ。さうしなければならないのだ。私は工女の境遇がつまらないのであることは知つて居る。それにはなりたくないと思つて居る。郵便脚夫は資本のある人に虐待される女工などゝは違つて、お国の人が一緒になつて暮すのに是非廻さなければならない一つの器械を廻すやうなことをするものなのだ。人間仲間の手助けを立派にするものなので、男装して男名《をとこな》にして私は早速郵便配達夫の見習ひに行かう。真実《ほんたう》にそれはいいことだとお幸は思ふのでした。
何時の間にかお幸はもう稲荷の森へ入つて来て居ました。虫の声が遠くなつて此処では梟《ふくろふ》が頻《しき》りに啼《な》いて居ます。
「久ちやん。」
お幸はいつものやうに弟へ帰つた合図の声を掛けました。古い戸のがたがたと開けられる音がしました。
「姉さん。」
久吉は草履を突掛けてばたばたと外へ走つて来ました。
「姉さんに云ふことがあるよ。」
「どうしたの、母様《かあさん》は。」
お幸の胸は烈《はげ》しく轟《とどろ》きました。
「母さんのことぢやないよ。姉さんに云ふことがあるつて云つてるのぢやないの。」
「ぢやなあに。」
お幸は弟の肩へ手を掛けて優しく云ひました。
「姉さん今日はお芋が焼いてあるよ。」
「そんなこと。」
「だつて姉さんはお腹《なか》が空《す》いて居るのぢやないか、僕《ぼく》知つてるよ。」
久吉は恨めしさうでした。
「誰《だれ》に聞いたの。」
「中村さんの音作《おとさく》さんに聞いたよ。今夜だつて食べさせないだらうつて。姉さんはもう我慢が出来まいつて。」
「あなた、母さんに話して、そのこと。」
「いいえ。けれどお芋は母さんに云つて焼いたのだからいいよ。」
「さう、ありがたうよ。久ちやん。」
「早く行かう姉さん。」
久吉に袖《そで》を引かれた時に、お幸は郵便配達夫になることを此処《ここ》で弟と相談して見ようと思つて居たことを思ひ出しましたが、其儘《そのまま》なつかしい母の顔のある家の中に入つて行きました。
二人の母親のお近《ちか》は頼まれ物の筒袖《つつそで》の着物へ綿を入れた所でした。
「唯今《ただいま》、母様《かあさん》、こんな遅くまでよくまあお仕事。」
とお幸は口早に云ひました。
「お帰り。道は淋《さび》しかつたらうね。」
「月夜ですもの提灯《ちやうちん》は持たないでもいいし。」
久吉が暗い台所から持ち出して来た盆からは餓《う》ゑたお幸に涙を零《こぼ》させる程の力のある甘い匂《にほ》ひが立つて居ました。お幸は弟の好意を其儘《そのまま》受けて物も云はずその焼芋を食べてしまひました。久吉はお茶の用意もしてくれました。
「私《わたし》が作つたものだもの、そんな
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