が済まないやうに思はれたので、後の幕を見ずに帰つた。外へ出ると明るい月光の下に人通も無く郊外の町がひつそりとしてゐる。役者達があれだけ働いて給銀の貰へないのを思ふと、この月光さへうら寒く感ぜられたが、併し猶芝居の馬鹿馬鹿しかつたことを思出して笑はずにゐられなかつた。
 それから数日して、昨晩はたまたま面白い月見をした。高島屋から其店の秋の「百選会」の新しい織物を批評して欲しいと望まれたので、私達夫婦は和田英作、山下新太郎、新居格、梅原龍三郎、中川紀元、堀口大学の諸家と、向島の水神の八百松へ午後四時から集つたのであつた。店の支配人小瀬氏を初め店員達が持参して陳列された織物の代表的な新作を諸家と一所に批評し終つたのは夜の十一時半。筆を擱いて気が附くと月が高く昇つて川を照している。宵に見た船の行き交ひも絶えて、対岸は光を帯びた霧にぼかされてゐる。帰路のために準備された発動機の遊船が迎へに来たので「八百松」と朱で書いた大きな名物の提灯と主婦や仲居達に見送られて、裏口から其れに乗つた。「江戸とまでは遡らずとも正に明治廿五六年頃の情景である」と良人が云ふ。批評会でお饒舌《しやべり》した一行も、夜の
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