ないにしても、それまでには多少の期間を要することは免れがたく、その期間には幾多の逆流があり、幾多の故障の起ることを予想せねばなりません。現にウィルソンの思想を講和条件に具体して決行しようとすれば各国の軍備の絶対的撤廃を主張しなければならないはずであるのに、ウィルソンの代表する米国では、反対に自国の海軍の大拡張を声明して世界の人にその一大矛盾を掩《おお》うことの出来ないような見苦しい現象のあるのは、民主主義の本場である米国においてさえ、国内における複雑な政争関係から、ウィルソンをして敢てこの一大矛盾を忍ばしめるに到ったことが想像されます。
私はウィルソンだけが唯だ一人傑出した大人格であると考えていません。ウィルソンぐらいの愛と識見と勇気とを持った人格は我国の少壮学者たちの中にも幾人かを数えることが出来ると思うのですが、世人がウィルソンとかロイド・ジョオジとかだけを特に崇拝して殆《ほとん》ど神様扱いにするばかりに推尊するというのは、それだけ世人がまだ他人に対する公平な批判力を持たず、自己の力量をウィルソンの力量と比較して同等に信頼し得るだけの修養も自覚も持っていないことの反映に過ぎないのです。民主主義の徹底する時代には偶像崇拝の思想の幻滅すべきは勿論のこと、法外な英雄崇拝の思想もまた自我の退嬰萎縮《たいえいいしゅく》として峻拒《しゅんきょ》されねばならないことだと思います。
こういう風に、人類の教養と訓練とに優劣の差が甚だしくあって、思想的には急進派と保守派と無定見派、経済的には富豪と中産階級と第四階級、政治的には官僚と、商工業者と労働者、こういう風に分離して、それが互に反撥し合ってる限り、人道主義や民主主義を標準として真実に全人類の生活を浄化するということは、まだまだこれを未来の時日に待たねばなりません。
殊に近代文明の中心から遠ざかっていた日本人においては、これまで久しくそれらの理想とは反対の思想の中に養われて来た者です。現にそれらの反対の思想が日本のあらゆる方面に浸潤して容易に抜きがたい勢力を持っているのです。日本人は個人の魂から深海の魚のように自覚の眼をなくすることのみを強制されて来ました。個性の尊貴とか人格の自由独立とかいう普通教育として最も大切な部分は、日本のどの学校においても教えられずに来たのです。教えられる所は、何事も要するに唯だ少数の権力者と、少数の資本家と、一人の家長とへの奴隷的奉仕に役立つという以外のことはないのです。教育ばかりでなく、宗教も道徳も専ら奴隷的奉仕の器械たるべく他律的に日本人を圧抑する手段たるに過ぎません。そのうえに私たち婦人にあっては一切の男子の下風に立ってそれに奉仕する絶対の屈従を天命とし、無上権威の道徳として課せられているのです。それがためには、特に婦人を愚にして魂の覚醒を禁圧する必要から、男子と対等の教育を私たちに施すことを拒み、名は高等女学校卒業といいながら、男子の中学の二年生程度にも匹敵しない低級な教育を、文明国の体面を保存する言訳だけに授けて置くに過ぎないのです。男子とても教育の自由を実際には許されていないのですから、高等教育を受ける男子は少数の経済上の僥倖者《ぎょうこうしゃ》に限られ、その少数の男子も卒業の後は官僚となり、財閥の成員|乃至《ないし》奉仕者となる人たちが大部分を占めているのですから、大多数の日本人を無学無産の第二次的国民として蔑視する階級思想と、日本の政治、学問、財力のいずれをも少数者の福利のために独占しようとする専制思想とは、次ぎ次ぎにその立派な後継者を得て繁昌しつつあります。
こういう保守思想がまだ優勢を示している日本において、人道主義や民主主義の思想が容《い》れられず、反対に危険思想であるが如き冤名《えんめい》をこれに着せようとする頑冥な反抗を見るのはやむをえない事だと思います。独逸《ドイツ》という外敵に勝った各国の人道主義者は、これより更に、その各《おのおの》の国内における非人道思想や、専制思想と戦わねばなりませんが、日本人の国内におけるこの意味の戦いは、最も多くの苦闘を覚悟する必要があると私は考えます。
新しい人間生活の方針である唯だ一つの理想を、自我実現と愛と正義との方面から見て人道主義と名づけ、人類平等の方面から見て民主主義と名づけたのであると概括して考えている私は、これを一言に簡約して新理想主義と呼びましょう。そうしてこの新理想主義を拒む保守主義者の言動が既に日本の各方面に起っていることは、敏感な自由思想家の見逃さない所であろうと思います。その一つをいえば、官僚的教育者の集団である臨時教育会議が、最近に女子教育を以て家族制度の精神に集中せしめたいという事、及び国民の思想を統一しようという事を政府に向って建議した事実などがそれでしょう。
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