激動の中を行く
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勃興《ぼっこう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)財閥の成員|乃至《ないし》奉仕者
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)戦前においてさまで[#「さまで」に傍点]
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人生は静態のものでなくて動態のものであり、それの固定を病的状態とし、それの流動を正統状態として、常に動揺変化の中にあるものであるということは説明の必要もないことですが、戦後の世界は戦前においてさまで[#「さまで」に傍点]優勢でなかった思想が勃興《ぼっこう》し初めたために、経済的、政治的、社会的のいずれの方面においても、これまでになかった急激な動揺変化を生じて、それがために人間の思想と実際生活とは紛糾に紛糾を重ねようとしています。即ち今日の新しい合言葉となっている人道主義とか、民主主義とか、国際平和主義とかいうものは、戦前において学者、詩人、社会改良論者、宗教家等の空想として、大多数の人類から軽視されていたものですが、今は普魯西《プロシヤ》のカイゼル父子とそれを繞《めぐ》っていた軍閥者流とが代表として固執していた旧式な浪曼《ローマン》主義に根ざす軍国主義や専制主義がこの度の戦争の末期において頓挫《とんざ》したために、英仏米諸国の一流の学者、政治家、芸術家に由って支持される新しい浪曼主義に根ざした人道主義や民主主義の思想が天下の権威であるが如き外観を呈するに到りました。そうして、今や世界は、この新しい権威である思想に向って俄《にわ》かに自己の生活を適応させるために照準の大転換を行おうとして焦燥《あせ》る者と、この思想に反抗して時代遅れの専制的、階級的、官僚的、資本家的の旧思想を維持するために、あらゆる非合理と陰険と暴力とを手段として固執する者と、この急劇な世界の変化に対し、こういう場合に処すべき修養と訓練とをそれまで[#「それまで」に傍点]から欠いていたために、どうすれば好いか、全く策の出《い》ずる所を知らないで徒《いたず》らに狼狽《ろうばい》して右往左往する者と、大体においてこの三種に分つべき人々に由って未曾有《みぞう》の混乱状態を引起しています。
私はこれを以て人類がやむをえず一度経験しなければならない過程であると思います。母が一人の子を生むにも精神と肉体との尠《すくな》からぬ苦痛を払います。人類が遠く釈迦《しゃか》や基督《キリスト》の時代から憧《あこが》れて来た、愛、正義、自由、平等を精神とする最高価値の新生に向って、大股《おおまた》に一つの飛躍を取ろうとするには、八百万人の死傷者と三千億円の戦費とを犠牲としてまだ足らず、更に思想的、経済的、政治的、社会的の猛烈な戦争と混乱との中に、劇甚な苦痛の試錬を受けねばならないのは理由のあることだと思います。
新しい浪曼主義の代表者であるウィルソン大統領の戦時中から今日に到るまでの度々の提議は、一語として新時代を指導する聖経風の金言でないものはありません。古《いにしえ》から大国の元首にしてウィルソンのように正大と高華《こうか》とを極めた提議を、ウィルソンだけの徳望と権威を持ちつつ世界に対して指導的に為し得た者があるでしょうか。私はウィルソンの人格の偉大であることを驚嘆しています。しかしそういう特別に飛び離れて偉大な人格が今日もなお世界に存在する如くに見え、大多数の人類がそういう偉大なと見える人格に由って音頭を取ってもらわねばならないという事実が、私の考察では、まだ世界の文化が非常に偏頗《へんぱ》な状態にある証拠であり、従って大多数の人類がウィルソンの提議に現れたような正大な思想を、何の凝滞《ぎょうたい》も曲解も反抗もなしに、空気を吸い水を飲むように、安々と肯定し、受容し、味解することの出来る程度に達していないものであることを思わせます。
民主主義ということは、大多数の人類が平等の機会と、平等の教育と、平等の経済的保障とに由って、すべて平等に最高の人格を完成することを、それの極致としているものであると私は解しているのですが、この解釈にして誤っていないならば、大多数の人類がまだ完全に民主主義の意義さえ知らず、人格の差異の甚だしい今日において一躍して容易にウィルソンの提議通りの世界改造が実現されようとは考えられません。ウィルソンのような思想はまだ特別に優秀な人格を持っている少数者の間の思想です。その思想は人類の平等化を目的とする民主主義であっても、その思想の主張者が高い飛び離れた位地にいて、まだ階級的に指導者または支配者という態度を以て大多数の人類に臨まざるを得ない有様である限り、それが果して勝利を得て、大多数の人類の間に家常茶飯《かじょうさはん》として普及することを疑わ
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