事は大抵の人に思い当る所があると信じます。
保守主義者は家族制度を以て孝悌忠信の保育所であるように考えているのですが、実際は大抵の場合これと反対な結果を示しているのです。現に地方から都会に出て独立の生活を営んでいる者は、大学の教授、政府の大官、財界の有力者より工場の女子労働者に至るまで、多くは非常な勇断の下に家族制度の精神に背《そむ》いて、かつて一度その郷里の家庭から離れ去った人たちであるのです。現代においては、このように家族制度を超越して、父母の膝下《しっか》を辞し、兄弟相別れて、各自の欲する所に赴《おもむ》いて活動するのが、かえって順当に孝悌忠信の実を挙げる結果になっています。これは決して男女の性別に由って相違のある事ではなく、現代における経済条件の必要と個性に根ざす独立生活の欲望とは、男をも女をも屋外と他郷との労働に就かしめ、特に男子よりもその数において多い我国の婦人労働者は、工場におけるその痩腕《やせうで》の稼ぎから生み出した賃銀に由って自己の衣食を支え、それを以て家長の厄介を尠《すくな》くしているだけでも、家にあって反目と争闘の中に暮している上流階級の家族制度的婦人に比べて、どれだけ現代道徳の実行者であるか知れません。私が昨年の九州旅行で聞いた事ですが、布哇《ハワイ》や北米やその他へ出稼ぎしている彼地方の男女は、毎年尠からぬ額の金を郷里へ送って父母の慰安とし、弟妹の教育費に当てる者が多く、中には家倉を新築させ、田畑を買わしめる者さえあるといいます。もしそれらの男女が家族的制度の下に小さく固まって郷里に留《とどま》っていたら、果してそれだけの愛情を父母兄弟に寄せることが出来たでしょうか。
思想の統一に至っては、茲《ここ》にも官僚教育者たちの画一主義が専制的な威圧を示しつつあることを私は怖れます。ウィルソンは巴里《パリイ》のソルボンヌ大学の演説で「大学の精神は自由にあり」という事を述べましたが、大学をすら官僚の牙営《がえい》に供して、その独立自由を確保しない我国の教育者は、人間の思想をも官営として一手専売を強《し》いようとするのです。しかし思想の何物であるかを知る人々にあっては、官僚は勿論、如何なる偉大な人格が強制的に統一しようとしても不可能である事を識別するであろうと思います。何が世の中で自由であるといっても、人間の心の内に起伏し流動する思想ほど自由なものはありません。顔さえも個別的の特色を備えて真実の意味にて瓜二《うりふた》つというものはないのに、まして、刻々に移動する思想は、個人の自発的なものほど個性の色彩が著しく、たとい他人の思想を受け容れたものでも第二の個性に由って着色され変形されないものはないのですから、万人万様の思想が存在するのは当然の事で、それらの思想が拮抗《きっこう》し、比較し、補正し、助長し合って存在してこそ、人類の思想は自浄作用の中に深化と進歩とを遂げるのであると思います。昔から宗教、学問、芸術のいずれでも官営の一種に決ってしまえば、いずれもその本質の腐敗を招かないものはありません。堂上の和歌、聖堂の朱子学《しゅしがく》、ロダンが罵《ののし》った仏蘭西《フランス》院体派の芸術、その実例はいくらでもあります。殊に官営の宜しくない事はその官権を以て反対の思想を暴力的に圧伏することです。思想の自由を奪うに至っては思想の統一でも尊重でもなく、反対に思想そのものの発展を願わない者のする残忍不法な行為です。
思想は統一されるものでない。兵隊の数に応じて同じ帽を被《かぶ》らせ得るように、人類をして均一に同じ思想を持たせ得るものでない。同じ思想に停滞したり囚えられたりしないで、勝手に優れたものであると自認する新しい思想を提供してこそ、世界人類の創造的進化に参加して各人が実力相応の貢献を為し得るのであると思います。思想が一種に固定してしまったら世界は化石状態となって、人類は自我発展の余地がなくなり、何の生き甲斐《がい》もない退屈な中に退化し自滅し去らねばならないでしょう。
それよりも、今日において、何人《なんぴと》も互に自ら注意すべきことは、思想の統一というような閑問題でなく、この戦後に発生する雑多な思想の混乱激動の中を安全に乗り切ろうとするのに、その雑多な思想のいずれをも観察し、批判する事を怠《おこた》らず、それがたとい外観上如何に険峻なものに見えようとも、また温健なるものに見えようとも、必ずその内容の純正か否かを透察し、それを自分の思想の養料として採用することだと思います。生活の理想は他人の指導に盲従してはならない。必ず自分の批判を経て全く自分の思想となったものを信頼せねばなりません。ウィルソンの唱える新理想主義にしても、私はそれの雷同者の俄《にわか》に多いことを頼もしげなく思います。戦争で独逸《ドイツ》
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