の負けたのを見て俄に独逸語の排斥を唱えたり、独逸の学問芸術までを罵ったりする軽佻な識者の多い日本に、昨日今日威勢の好い民主自由の思想に何の省慮も取らず共鳴する人の殖えて行くのは一概に嬉しいとはいわれません。
私もウィルソンを尊敬する一人です。しかしウィルソンの唱えたが故に私は人道主義や民主主義に賛成する者ではないのです。貧弱ながら私の理想は私自身の建てたものです。それがウィルソンの偉大な理想と偶《たまた》ま似ている所があるというに過ぎません。そうして、私は今日の私に停滞していようとする者でなく、勿論ウィルソンの理想に低徊しているような閑人でもありません。明日はウィルソンが彼れの大きな道を選んで前進するように、私は私で自分の小さな道を選んで前進するでしょう。固《もと》より次第に激増する雑多な思想の混乱激動に出会うのは覚悟の前です。
私は一つの譬喩《ひゆ》を茲《ここ》に挿《さしはさ》みます。巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓《ざっとう》へ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢《ひ》き殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌《あわ》てず、騒がず、その雑沓《ざっとう》の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭《せんえい》な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧《たくみ》に制御しているのです。私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
保守主義者の反抗思想の中には随分|莫迦々々《ばかばか》しいものがあります。或婦人雑誌に法学博士|三潴信三《みつましんぞう》氏が婦人職業問題に反対して「欧米において婦人が何々の職業を与えられているからというが如き単なる理由の下に、婦人の職業を徒《いたず》らに奨励するが如きは、家族主義の我国としては破壊的の考えといわねばなりません。……婦人が進んで家庭から離れようとする如き考えは決して健全なものと思われません」といわれた如きは、博士こそ余りに「単なる理由」の下に軽率なる断案を下されたもので、博士は我国の女工八十万の家庭事情が経済的と倫理的の両方面から、彼らを職業婦人たらしめねば置かないという重要な理由を看過しておられるのです。彼らにしてもし工場労働者とならなかったら、餓死するか醜業婦となって堕落するかの外に道はないでしょう。
三潴博士のお説で更に笑うべきは「外国の事柄を借らずともよい」という単なる理由から、西洋音楽を排斥し、サンタクロスの代りに大黒様の名を挙げ、家庭においてパパとかママとか呼ばせていることを攻撃し、正月の遊びにも西洋趣味の物でなくて東海道々中|双六《すごろく》を用いて欲しいと望んでおられる事です。日本音楽が西洋音楽に比べて非常に劣等な位地に停滞しているものである事は、新進の音楽学者|兼常清佐《かねつねきよすけ》氏の日本音楽論を読まれても解ることです。兼常氏は日本音楽を西洋音楽に勝るとするのは蝙蝠《こうもり》を見て飛行機より偉大であるとするに等しいといわれました。博士は外国の輸入物を嫌われることがまるでペスト菌にでも触れられるようですが、日本の法律が範を独逸に採っているのは勿論、古くは雲上の御称号の文字を始め、今日の三潴博士の姓氏の文字までが外国からの移植であって見れば、パパといい、ママというのも決して忌むべき理由はありません。博士はチチ(父)ハハ(母)という言葉を純粋の国産だと思っておられるのでしょうが、進歩した言語学ではそれが支那の古代語であることを証明しています。外国産の輸入を嫌っていると、古代人の尊重した鏡までが、日本で発明した「鈴鏡《れいきょう》」という鏡を除く以外は、すべて支那へ返さねばならない事になるでしょう。三潴博士のお説は一笑に附し去っても好いようですが、これを突き詰めて行くと、博士のお考とは反対に、古来の日本文明を破壊すると共に、新しい日本文明の建設を阻害する結果となるのを遺憾に思います。これ
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