きごゑ》がする。
『お湯が沸きましたよ。滿。』
 お照が甥を起《おこ》しに来た。
『あら、叔母さんがもう起きていらしやる。』
 鏡子が枕から頭《つむり》を上げようとするのを、お照は押《おさ》へるやうな手附をして、
『まあ、お休みなさいよ。』
 と云つた。滿と健はばたばたと床《とこ》を抜けて行つた。
『どうせ寝られないのだから。』
 都鳥《みやこどり》の居る紺青《こんじやう》の浪が大きく動いて鏡子は床《とこ》の上に起き上つた。
『昨晩はよくお休みなさいましたか。』
『ちつとも。』
 寝くたれ髪が長く垂れて少女《をとめ》のやうな後姿《うしろすがた》であつた。
『兄《にい》さんが余計お湯を使つちやつた。』
 健の泣き出したのを聞いてお照は洗面|場《ば》の方へ行つた。榮子はまた声を張り上げて泣いた。
 鏡子は鏡の室《ま》から出て来て、
『お照さん、こんな結ひ様《やう》もあるのよ。』
 と云つて、頭《あたま》を其《その》方へ傾けて見せた。髪の根を下の方で束《たば》ねて、そしてその根も末の方も皆裏へ折り返して畳んでしまつてあるのである。
『さつぱりとして軽さうですね。』
『けれど尼様《あまさま》のやうに見える寂しい頭だつて良人《うち》は嫌ひなのよ。』
『さう云へばさうですね。昨日《きのふ》のになさいまし。』
『でもいいわ。今は尼様だわ。』
 頬《ほ》を少し赤めて彼方《あちら》へ行つた姉をお照は面白くなく思つて見送つた。
 男の子二人が、
『行つて参ります。』
 と云つて庭口《にはぐち》から出た後《あと》で外の家族は朝飯《あさげ》の膳に着いた。
『英さんのおみおつけが別にしてあつた。』
『さうですね。』
 お照が立つと、わあつと榮子が泣き出した。直《す》ぐ叔母は戻つて来て榮子を膝の上に上げて、
『どうしました。どうしました。お乳《ちゝ》を上げようね。』
 と云つて襟をくつろげた。榮子は小《ちいさ》い手を腹立たしげに入れて叔母の乳《ちゝ》を引き出して口に入れた。
『まあ乳《ちゝ》を飲むのですか。』
 と鏡子は云つたが、心は老いたる処女の心持の方が不可思議でならないのであつた。
『ええ。』
 お照はまた其《その》子に、
『母《かあ》さんのお乳《ちゝ》は真実《ほんとう》のお乳《ちゝ》よ、お貰ひなさいよ。』
 と云つた。
『いやだわ。』
 と鏡子は反撥的に云つた。そして、
『何故《なぜ》さうなのでせう。玉川の方でも乳《ちゝ》は一年|限《ぎ》りで廃《よ》して居たのだつたのにね。』
 かう云ひながら末の出す赤い盆にてつせんの花の描《か》いた茶碗を載せた。
『さあ御飯を食べませう。』
 お照は乳房《ちぶさ》をもぎ放して榮子を下に置いた。また泣いて居たのを、
『ばつたりおだまり。』
 と叔母に云はれるのと一緒に声を飲んだ子がをかしくて鏡子は笑ひ出したく思つた。後《おく》れて来た花木が、
『あら、叔母さん嘘、お芋のおみおつけだと云つたのに。』
 と云つて汁椀の中を箸で掻き廻して居る。
『八つ頭と云つてこれもお芋ですよ。』
 と母親が云つた。
『叔母さんは嘘つきですとも。』
 と云つたお照は目に涙を溜めて居た。鏡子は京都者の軽い意味で云ふ横着と云ふ言葉が、東京者に悪い感じを与へるのと、東京の人が軽い意でちよくちよく嘘と云ふ言葉を遣ふのが京の人に不快を覚えさすのとは、一寸《ちよつと》説明した位《ぐらゐ》で分らない事だから、こんな時には黙つて居るより仕方がないと思つて居る。そしてこれからの困りやうが思ひ遣られるのであつたが、留守のうち、過去と云ふ事は思つて見たくなかつた。それでなくとも自分は彼方《あちら》に居た六ケ月の間、心の中で毎日子に跪《ひざまづ》いて罪を詫びない日はなかつたのであるからと思つて居た。榮子は御飯が熱いから厭《いや》、冷《つめた》いからいけないと三度程も替へさせてやつと食べにかゝつて居るのである。それは母を見ぬやうに目を閉《ふた》いで口を動《うごか》して居るのである。
『私を見るのが厭《いや》で目を閉《ふた》いで居るのね。』
『ふ、ふ。』
 とお照は笑つて、
『榮ちやん、好《い》い顔をなさいよ。あなたは真実《ほんとう》に可愛い表情をする人ぢやありませんか。』
 と云つて居た。
 書斎へ来て新聞を見ようとして、自身の事の出て居るのに気が附いた鏡子は、三四種の新聞を後《うしろ》の靜《しづか》の机の上へそのまゝ載せた。[#底本には「』」があるが除いた]
『お早う。』
 瑞木が挨拶に来た。花木も晨も来た。
『何故《なぜ》御挨拶に行《ゆ》けないのです。よくおしやべりをする口で。』
 お照の声が不意に書斎の隣で起つて、続いてぴしやり、ぴしやりと子の頭《かしら》を打つ音が鏡子に聞《きこ》[#ルビの「きこ」は底本では「こ」]えた。
『いやだあ、しない、しない。』
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング