『これでもか、これでもですか。』
『しないのだ。いやだあ。』
 八頭《やつがしら》の芋を洗ふやうにお照は榮子の頭を畳に擦《す》りつけ擦《す》りつけして、そして茶の間へ出て襖子《ふすま》を閉めてしまつた。
『をばあさん。をばあさん。』
 榮子は有らん限りの泣声を立てゝ居る。鏡子は涙を零《こぼ》して居た。
『瑞木さんと花木さんの幼稚園へ行くのを、母さんは通《とほり》まで送つて上げよう。』
 鏡子は身を起してかう云つた。
『二人で行《ゆ》けるのよ。』
 端木が云つた。
『ぢやあ裏門まで。』
 末が赤いめりんすで包んだ双子《ふたご》の弁当を持つて来た。
『瑞木さん、花木さん、おはんけちの好《い》いのを上げませう。』[#底本では「』」は脱落]
 お照は二人のクリイム色の帯に白いはんけちを下げて遣つた。
『ありがたう。叔母さん。』
 瑞木が云ふと叔母は満足らしい笑《えみ》を見せて、
『いつていらつしやい。』
 と云つた。
『叔母さん、行つてまゐります。』
 二人は一緒にかう云つて庭口《にはぐち》から出て行つた。鏡子は二|間《けん》程|後《あと》から歩いて行《ゆ》くのであつた。車屋の角迄|行《ゆ》くと、忘れて居るのであらうと思つて居た母親を見返つて、
『さよなら。』
 と二人は一緒に云つた。
『もう少し母《かあ》さんは行《ゆ》きませう。』
 二人はまた手を取つて歩き出したが、二三|間《げん》先の曲角《まがりかど》でまた、
『さよなら。』
 と云つた。
『阪《さか》の処《ところ》まで行《ゆ》きますよ。』
 かう云つて随《つ》いて来る母親から次第に遠く離れて双子《ふたご》は急足《いそぎあし》で女子学院に添つた道を歩くのであつた。鏡子はお照を新橋から迎へて来て此処《こゝ》を歩いて居た時の自分の其《その》人に対する感情は純なものであつたなどゝ思ふ。けれど今だとてあの人を悪くは少しも思つて居ない。子供が俄かに母の手に帰つたので云ひ様《やう》もない寂寞を昨日《きのふ》からあの人は味《あぢは》つて居るのであるから、あゝした尖《とが》つた声で物を云つたり、可愛い榮子を打つたりするのである。さう同情して思ふから、一層この後《のち》があの人のためにも自分のためにも心配でならないと、こんな事を思つて居る鏡子は俯向《うつむ》き勝ちに歩《ほ》を運んで居た。何時《いつ》の間にか回生病院の前へ出た。
『さよなら。』
 今度は母の方から大きく云つた。
『さようなら。』
 双子《ふたご》は振返つて一寸《ちよつと》お辞儀をしたが、直《す》ぐ阪《さか》を駆けて降りやうとした。十|間《けん》程先で二人はぱつと左右に分れた。そしてわつと泣き出した。鏡子がまだ阪《さか》の上に立つて居た事は云ふ迄もない。鏡子は転《ころ》ぶやうに子の傍へ行つた。二人を両手で同じ処に引き寄せた。鏡子はべつたり土に坐つて、親子三人は半年前の新橋の悲しい別れを今の事に思つて道端《みちばた》で声を放つて泣いたのであつた。小学生が四五人怪しさうにこれを見て通つた。
『母《かあ》さん、母《かあ》さん。』
 と絶えず云ふ瑞木の言葉の奥には行つちやあ厭《いや》と云ふ声が確かにあるのをもとより母は知つて居た。[#「底本では「。」は脱落]
『ぢやあ幼稚園まで送つて上げようね。』
 二人は泣きながら黙頭《うなづ》くのであつた。歩み出しても泣《なき》[#「なき」は底本では「ない」]じやくりが止まりさうにない。
『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母《かあ》さんはもう何処《どこ》へも行《ゆ》かずに家《うち》にばかり居るのだからいいでせう。』
 云ふと二人は何でも黙頭《うなづ》くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母《かあ》さう、母《かあ》さん。』
 とまた云ふ鏡子はお照の居ない家《うち》なら伴《つ》れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場《けうぢやう》まで伴《つ》れて行つた。
『さあ、運動|場《ば》へ行きませう、花木さんはお姉《ねえ》さんぢやありませんか。お姉《ねえ》さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
 保姆《ほぼ》に云はれて二人は泣きながらまた黙頭《うなづ》いて居た。
 悔恨の銀の色の錘《おもり》を胸に置かれた鏡子が庭口《にはぐち》から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁《えん》ではお照がまだ榮子に乳《ちゝ》を含ませて居た。
『おかヘり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
 と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向《うしろむき》になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟《とゞろ》がせ
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