くびやう》な心が思はせるので、それは心にしまつて居た。
 お照が出て来て、
『英さんがお先に失礼すると申して二階へ上《あが》りました。』
 と云つた。
『さう。あなたも今日《けふ》はくたびれたでせうね。』
『いいえ。そんな事があるものですか。』
 とお照は云つた。京女のその人は行《ゆき》届いた言葉で今度の礼を畑尾に云つて居た。
『また伺ひます。さやうなら。』
 何時《いつ》もの風で畑尾はだしぬけにかう云つて帰つた。
『姉《ねえ》さん、私はね、初め四月《よつき》程の不経済な暮しをして居ました事を思ひますと姉《ねえ》さんに済まなくつて済まなくつて、仕方がないのですよ。』
 お照は右の手首を左の手の掌《ひら》でぐりぐりと返しながら姉の顔を見て云つた。
『済んだことだわ。何とも思つて居やしませんよ。』
 余り聞きたく無い事であつたから鏡子は口早《くちばや》に云つてしまつた。
『榮子の薬代も随分かかりますしね。』
『さうでせう。さうでせう。』
 鏡子は少し自棄気味《やけぎみ》で云つた。
『榮子一人にどれだけお金の掛つたか知れませんよ。』
『あのう、巴里《パリイ》から一番おしまひに来た手紙は何時《いつ》でしたの。』
 と鏡子が云つた。
『十日《とうか》程前でしたかしら。』
『見せて頂戴な。』
『はい。』
 お照は本箱の上に載せた蝋色の箱の中から青い切手のはつた封筒の手紙を出した。手に取つて宛名を見ると、鏡子は思ひも及ばなかつた徴《かす》[#「徴《かす》」はママ]かな妬みの胸に湧くのを覚えたのであつた。
 子供達皆無事のよし、何事も皆お前様の深き心入《こゝろいれ》よりと嬉しく候。
 と書き出して、優しい言葉が多く書いてある。鏡子が巴里《パリイ》に居た頃、自身達の本国に居た頃より遥かに多く月々の費《かゝ》りが入《い》るのを知らせて来る妹の家計を、下手であると怒つては出すのも出すのも妹を叱る一方の手紙だつたのを、傍からもう少し優しくとか、もう少しどうかならないかと頼み抜いた自分が、傍に居ない日になると、他人の自分が居なくなると兄は妹にこんな手紙も書けるのであるとかう思ふと、鏡子は何とも知れぬ不快な心持になつた。鏡子も無事に日本へ帰るかどうかと心配がされると云ふやうな事もあるのであるが、良人《をつと》の愛に馴れた妻はこの位の事は嬉しいとも思はないのである。
『畑尾さんの処《ところ》へ来たと云ふ方が近いたよりなんですね。』
 鏡子は何気《なにげ》ない振《ふり》でかう云つて居た。
『私もう寝ませうかねえ。』
 とまた云つた鏡子の声は情なさうであつた。
『さうなさいまし。』
『おやすみなさい。』
 鏡子は寝室へ行つた。八畳の真中《まんなか》に都鳥《みやこどり》の模様のメリンスの鏡子の蒲団が敷かれてある、その右の横に三人の男の子の床《とこ》が並んで居て、左には瑞木と花木が寝て居る。若草の中の微風《そよかぜ》のやうな子等の寝息、鏡子のこがれ抜いたその春風に寝る事も鏡子にはやつぱり寂しく思はれた。良人《をつと》を置いて一人この人等の傍へ寝に帰らうとは、立つ前の夜《よ》の悲しい思ひの中でも決して決して鏡子は思はなかつたのであつた。ふとお照がもう五つ六つ年若《としわか》な女であつたなら、そしてあのやうな恐い顔でなかつたならせめて嬉しいであらうなどとこんな事も思ふのであつた。
 五時頃から滿と健はもう目を覚《さま》して、互いの床《とこ》の中から出す手や足を引張り合つたり、爆《は》ぜるやうな呼び声を立てたりして居た。鏡子は昨夜《ゆふべ》二三十分|位《ぐらゐ》は眠れたが、それも思ひなしかも分らない程で朝になつたのである。六ケ月の寝台《ベツト》の寝ごこちから、畳の上に帰つた初めての夜《よ》の苦痛もあつたからであらう。
『母《かあ》さん、母《かあ》さん。』
 滿が呼んで見た。
『なあに。』
『母《かあ》さん、仏蘭西《ふらんす》の話をして頂戴よ。』
『して、して。』
 と健も云ふ。
『母《かあ》さん、話してい。』
 花木も云ふ。
『母《かあ》さん。』
 云はねば済まないやうに瑞木も云つた。
『狐《けえね》の母《かあ》さん、お乳《ちゝ》を飲ましてくえないか。』
 目を覚して晨も声を出した。
『何を云つてるの。』
『学校子供云ふの。』
 これは健の友達の弟がさう云つたと云ふ話を晨の聞き覚えた事なのである。
『母《かあ》さん、話してよう。』
 滿が云ふのに続いて皆が母《かあ》さん、母《かあ》さんと云ふ。
『母《かあ》さんは昨夜《ゆふべ》よく眠《ね》ないのでね、頭が痛いのよ。』
『さう。ぢやあいいや。』
 と滿は云つた。
『つまらないなあ。』
 と健は云ふ。好きでない気質の交つた子だと、鏡子は昔からの感情の改《あらたま》り難《がた》い事も健に思つたのであつた。隣の間で榮子の泣声《な
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