『少《すくな》くも二つ三つはね。』
 英也は胡散《うさん》らしく云つた。
『さうぢやありませんよ、確《たしか》に。』
『南さんの方が真実《ほんとう》ですね。ねえ南さん、良人《うち》がね、巴里《パリイ》でね、此処《こゝ》へ着いた十日程は若かつたねと云ふのでせう。私を先に帰して下すつたら、あなたが帰つていらつしやる時にはまた五日|位《ぐらゐ》は若いでせうと云つたの、僕の思ひなしにしてしまつて居るのだ馬鹿だと怒つてましたわ。』
 英也は火鉢の灰を掻きならしながら下を向いて笑つて居た。
 南夫婦と鏡子は菊屋の寿司を書斎へ運ばれて、子供達は六畳でそれを食べて、夕飯《ゆふげ》はそれで済んだ。飯酒家《のみて》の英也はお照の見繕《みつくろ》つた二三品の肴《さかな》で茶の間で徳利を当てがはれて居た。清の妻の都賀子《つがこ》が来たので鏡子は暫く座敷で語つて居た。都賀子は鏡子よりは二つ三つの年上で洒脱《しやだつ》な江戸女である。
『唯今迄のお照さんのお役目が大変で御座いました。』
 と出て来た妹に花を持たせる事も忘れなかつた。
 鏡子は書斎へ帰つてゆきなり、
『私ときどき喧嘩もして来てよ、帰りたいばかしに。』
 と云つて南夫婦をじつと見た。
『ほ、ほ、ほ。』
 と夏子は笑つた。やつとして南は、
『さうですか。』
 と云つて居た。南の気の毒なものを見るやうな目附《めつき》が鏡子には寂しく思はれるのであつた。巴里《パリイ》への手紙は今日《けふ》書けないかも知れぬと悲しい気持になつたり、書棚の引出しに確かにある筈《はず》の良人《をつと》と一緒に去年の夏頃とつた写真が見たいものだと云ふ気になつたりして居た。榮子がまたぐずぐず云つて居るのを聞いて夏子が立つて行つた。
 榮子は英也の向側に坐つたお照の横に、綿入《わたいれ》を何枚も重ねて脹《ふく》れた袖を奴凧《やつこだこ》のやうに広げて立つて、
『叔母さんとねんの、叔母さんとねんの。』
 と連呼して居た。
『どうなすつたの、榮ちやん。夏子さんとおねんねいたしませう。』
 と云つて夏子は坐つた。お照は榮子を膝に掛けさせて、
『母《かあ》さんと寝れば好《い》いので御座いますがね。』
 と云つた。
『今晩からは御《ご》無理で御座いますよ。榮ちやんいらつしやい。』
 榮子は夏子の伸《のば》した手の中へ来た。
『さあお寝召《ねめし》を着かへませう。お末さん何方《どちら》。』
『はあい。』
 お末は白い前掛で手を拭き拭き出て来て、暗い六畳の半間《はんげん》の戸棚から子供達の寝間着の皆|入《はい》つた中位《ちうぐらゐ》な行李を引き出した。
『榮子さまは好《い》いので御座いますねえ、夏子さんとおねんねで御座いますか。』
『いいのですとも。』
 榮子を抱いて来た夏子はくるくると着替へをさせてしまつた。そして末の敷いた蒲団へ小《ちいさ》い身体《からだ》を横に置いて、自身も肱枕をして、
『ねんねえ、ねん、ねん。』
 と云つて居た。
『もう皆もお休みなさいよ。』
 書斎の母親は座敷に遊んで居る子供達にかう声を掛けた。
『いつもまだまだ寝ないのよ、母《かあ》さん。』
 滿は不平らしい声で云つた。
『でも、今朝《けさ》は早く起きたのでせう。だから。』
『はあい。』
 と滿は答へた。
『もう眠いのよ。母《かあ》さん。』
 母の傍へ来た花木がかう云つた。
『末や、お床《とこ》とつて。』
 云ひながら茶の間へ滿が出て行くと、
『まだ早いぢやありませんか。』
 とお照が云つた。
『母《かあ》さんが寝なさいつて云ふたんだあ。』
 羽織の白い毛糸の紐の先を歯で噛みながら云つて居る此声を、もう起き過ぎたねぞろ声だと母親は此方《こちら》で思つて居た。泣くやうな目附を見るやうにも思つて居た。
『さうですか、末や床《とこ》をとつておやり。』
 お照はまた、
『岸勇《きしゆう》と云ふのが好《い》いのでせう。』
 と英也に話を向けた。
『うん、うん、うん、あれなんか好《い》いのだ。』
 点頭《うなづ》きながら叔母にかう答へて英也は杯《さかづき》を取つた。畑尾がまた来たのと入り違へに南は榮子を寝かし附けた夏子を伴《つ》れて帰つて行つた。
『私ね、鞄なんかの鍵を無くしてしまつたのよ。神戸の宿屋でせうか。』
『さうですか、大変ですね。』
『ええ。』
 と云つたが、鏡子は先刻《さつき》お照から大変だと云はれた時程ひしひし悪い事をしたと云ふ気も起《おこ》らないのであつた。
『三越へ電話で頼んで頂戴よ。彼処《あすこ》にはあるに決つて居るのだから。』
『ああさうですね。宜しうおます。』
 それから昨日《きのふ》神戸でしかけた旅の話の続きのやうな話が長く続いた。鏡子は気に掛《かゝ》る良人《をつと》の金策の話を此人にするのに、今日《けふ》は未《ま》だ余り早すぎると下臆病《したお
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