気《あぢき》なく鏡子には思はれるのであつた。先刻《さつき》から銀の針で目の横を一寸《ちよつと》刺されたなら、出ても好《い》いと言はれた涙は流れに流れて、あの恐しいものだつた海と同じ程にもなるだらうとそんな感じが鏡子にするのであつたが、その押《おさ》へて居ると云ふのは喜びに伴ふ悲哀でも何《な》[#ルビの「な」は底本では「なん」]んでもない、良人《をつと》と二人で子の傍へ帰つて来る事の出来なかつたのが明《あか》らままに悲しいのである。得難いものの様に思つて居た子を見る喜びと云ふものと楽々|目前《もくぜん》に近づいて居るのを思ふと、それはもう何程の価《あたひ》ある事とも鏡子には思へないのであらう。
『叔母さん。母《かあ》さん、もう新橋よ。』
 と云つて、滿が母の傍へ来た。
『もう参りました。』
 と清が云つた。
 鏡子は滿が想像してた程大きくなつて居なかつた事が実は嬉しくてならなかつたのであつたが、瑞木と花木は其《その》割合よりも大きかつた。さうであるから悲しい涙が零《こぼ》れた。そして紫の銘仙の袷《あはせ》の下に緋の紋羽二重の綿入《わたいれ》の下着を着て、被布《ひふ》は着けずにマントを着た姿を異様な情《なさけ》ない姿に思はれた。
『健《たかし》は。』
 鏡子は前後を見廻してから云つた。
『健さん、何処《どこ》に行つてるのでしよう。』
 お照は人に隔てられて一二|間《けん》先に立つて居た健の手を引いて来た。
『健。』
『うう、おかへり。』
 顔も声もこれは最も変つて居なかつた。鏡子は意識もなしに先刻《さつき》から時々|其《その》人に物を云つて居た黒|目鏡《めがね》が南の夏子であることに漸く気が附いて来た。
『お変りなくつて、南さんもね。』
『南も参るので御座いますがね、どうしても出なければならない講義がありましてね、私ばかり参りましたの、[#「、」は底本では脱落]皆様が大《おほ》よろこびで大変で御座いましたの、奥様まあおめでたう御座います。』
 静かにではあるがかう続けざまに夏子は云つた。
『一寸《ちよつと》お写真を取らして戴きます。』
 先刻《さつき》同車して来た記者は写真師を伴《つ》れて来た。
『困るわ、私まだ顔も洗はないのだから。』
 鏡子はお照に云ふともなく記者に云ふともなく云つて、夏子の肩に手を掛けて顔を蔭へ隠すやうにした。
『ねえ、かうしてね。』
 小声《こご
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