なあに。』
『僕は三番なのよ。叔母さん、健《たかし》は四番です。』
滿が続けざまに云ひ誤《まちが》ひをして、そしてそれに少しも気が附かないで居るのが鏡子には悲しかつた。この時のは冷《つめた》い涙であつた。
『英《ひで》さん、北野丸を見て。』
滿は向側《むかふがは》の従兄《いとこ》に話しかけた。
『ああ、見たよ。』
『アリヨルと何方《どつち》が大きい。』
『それは北野丸の方が大きいさ。』
鏡子は我子の言葉から、春の末《すゑ》の薄寒い日の夕暮に日本の北の港を露西亜船《ろしやぶね》に乗つて離れた影の寂しい女を幻《まぼろし》に見て居た。その出立《でたち》の時に自分はもう此辺《このへん》からしみじみ帰りたかつたのだとも哀れに思ひ出される。新橋へ着く前に顔を洗ひたいと思つて居ることも実行がむづかしいやうでもあり、昨日《きのふ》北野丸で上げた儘で、そして夜通しもがき続けたのであるから髪も結ひ替へたいが出来さうにもない。こんなに何事にも力の尽きたやうな今の様《さま》がみじめでならなくも思はれるのであつた。二人の記者は何時《いつ》の間にか席に居なくなつた。畑尾と英也は手荷物の数を読んだり、これこれは配達させようなどと相談をしたりして居た。
鏡子はもう幾|分《ふん》かの後《のち》に逼《せま》つた瑞木や花木や健《たかし》などとの会見が目に描かれて、泣きたいやうな気分になつたのを、紛《まぎら》すやうに。
『私は苦しいのでね、まだ顔を洗はないのですよ。』
清に話しかけた。
『なあに、宜しう御座いますよ。』
『あなたの処《ところ》の薫《かほる》さんや千枝子さんはどうしていらつしつて。』
鏡子は弟の子の事を今迄念頭に置かなかつたやうに思はれはしないかと、かう云つた後《あと》で少し顔を染めた。
『皆|壮健《たつしや》で居《を》ります。』
『大きくおなりでしたらうね。』
鏡子自身がかう云つた言葉の態《わざ》とらしいのに満足が出来なかつた。
『私は千枝子さんが真実《ほんとう》に好きなんですよ。』
と云つて見たがこれも木に竹を継いだやうで厭《いや》に思はれた。[#「。」は底本では「、」]良人《をつと》の外に言葉の通じぬ世界の生活に続いて、船の中で部屋|附《づき》のボオイや給仕女に物を云ふ以外に会話らしい会話もせず三十八日居た自分は当分普通の話にも間の抜けた事を云ふのであらうとこれなども味
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