親切は胆《きも》に銘じて居《を》ります。』
 鏡子は何時《いつ》の間にか床《ゆか》に足が附いて居て、額にあつた氷は膝の上の掌《たなごゝろ》に載つて居た。
『まあ御病気も太《たい》した事でありませんで結構でした。もつとお弱りかと思ひましてね、案じて居《を》りましたのですが。』
 それから清は前に立つて微笑《ほほゑ》みながら母を眺めて居る滿に、
『滿さん、御挨拶をしないの。』
 と優しく云つた。
『母様《かあさま》、おかへり。』
 かう云つて滿は顔をぱつと赤くした。
『滿さん。』
 と云つた母の顔にも美《うつ》くしい血が上《のぼ》つた。滿は其《その》儘|向側《むかふがは》の畑尾の傍へ行つてしまつた。鏡子はまた横になつて[#「横になつて」は底本では「横になつ」]しまつた。
『家《うち》でもお照《てる》さんが心配して居るらしいですわね、畑尾さんの所へ巴里《パリイ》から来た手紙が余り大層に書いてあつたらしいですわね、さうだもんだから。』
 鏡子はあへぎあへぎ云つた。
『お静かにしていらしつたらどうです、お話はゆつくり伺ひますから。』
 見兼ねて清がさう云つた。
『ええ。』
 と黙頭《うなづ》いて二三分も経つか経たぬに鏡子はまた、
『私ね、あなたも恨んだ事があつたのですよ。彼方《あちら》で帰りたくなつた時ね。あの!巴里《パリイ》から来いと云つて来ました一番初めの手紙ね、あれが来た時丁度あなたが来ていらつしつて、其《その》事を賛成遊ばしたから、私の心が間違ひ初めたのだなんか思つてね。』
 と前と同じ調子で話しだした。
『はあ、さうですか、ふふ、さうですか。』
 清は病院の見舞客のやうな労《いたは》り半分の返辞を続けて居た。
『滿を呼んで下さいな。』
 突然鏡子が云つた。
『滿さん、母《かあ》さんの所へ来なくちやあ。』
『なあに。』
 叔父さんは少し坐を空《あ》けて滿を座らせた。
『皆新橋へ来るの。』
 鏡子は滿の手を取つた。
『晨《しん》と榮子は来ないけれど。』
『あの人|等《ら》は来なくつても好《い》い。小《ちさ》いのだから。』
 と云つて、鏡子はお前は自分の子の中で一番大きな大切な子であると確かめて知らせるやうな目附きで滿を見た。
『瑞木《みづき》や花木《はなき》は此頃《このごろ》泣かなくつて。』
『どうだか、僕は学校へ行つてるからよく知らない。叔母さん僕は三番よ。』
『滿。
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