た。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
鏡子は縁側の処《ところ》へ寄つて行つた。
『なあに。』
と晨の云つて居るのはやはり其《そ》の狭い処《ところ》からである。
『晨は何時《いつ》もあんな処《ところ》に入《はい》つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
晨は赤い口唇《くちびる》を細く窄《すぼ》めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後《あと》には心残りがない。家《うち》へ帰りたい帰りたいと思つた家《いへ》と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英《ひで》さん、今日《けふ》はお出かけ。』
かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上ヘ上《あが》つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日《きのふ》東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好《い》い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好《い》い処《ところ》もありますね。』
今度はお照が極く滅入《めい》つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好《い》い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日《けふ》はだめだらうと思ふのですよ。』
かう微笑《ほゝえ》みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人《をつと》の若盛《わかざか》りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸《ちよつと》思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草《たばこ》が飲みたくてならなくなるのよ。』
鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草《たばこ》は皆|粉《こ》になつて灰の上に散つて居た。煙草《たばこ》に気が附いた時鏡子は好《い》い事をしたと思つた。廃《や》
前へ
次へ
全25ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング