硼酸《ほうさん》で洗つたりする勇気もないわ。』
『そんなこと。』
『私まだ顔を洗はないのよ。』
『さうでしたね。直《す》ぐ湯を沸かさせませう。』
 鏡子はこんなに睦まじく話す人が家の中にある事を涙の零《こぼ》れる程嬉しく思ふのであつた。小紋の羽織の紐を結ぶと直《す》ぐ鏡子は鏡のある四畳半へ行かうとした。茶の間を通つた時、やつぱり我家《わがいへ》と云ふものは嬉しい処であるとこんな気分に鏡子はなつた。もう余程影の薄いものになつて居たやうなあるものが、実はさうでもない事が分つて来たのである。鏡の前へ一寸《ちよつと》嘘坐《うそずわ》りして中を覗《のぞ》くと、今の紫の襟が黒くなつた顔の傍に、見得《みえ》を切つた役者のやうに光つて居た。良人《をつと》が居ないのだからと鏡子は不快な投《なげ》やり心《ごゝろ》を起《おこ》して立つた。巴里《パリイ》の家の大きな三つの姿見に毎日半襟と着物のつりあひを気にして写し抜いた事などが醜い女の妬《ねた》みのやうに胸を刺すのであつた。
 書斎の靜の机の上も鏡子のも綺麗に片附いて居て、書棚の硝子戸にも曇り一つ残つて居なかつた。小菊が床《とこ》に挿してある。掛けたあの人の銀短冊の箔《はく》の黒くなつたのが自身の上に来た凋落と同じ悲しいものと思つて鏡子は眺めて[#「眺めて」は底本では「眺めた」]居た。門の開《あ》く音がして、それから清と英也が庭口から廻つて来、畑尾と夏子が玄関から上《あが》つて来た。
 新聞記者の二三人が来て帰つた後《あと》で清とお照は相談をひそひそとして居たが、それから清はお照の持つて来た硯で、紙にお逢ひ致さず候《さふらふ》と書いた。それをお照が御飯粒で玄関の外へ張つた。これで大《だい》安心が出来たと云ふ風にお照は書斎へ行つた。
『姉《ねえ》さん、兄《にい》さんがさう云ひましてね、お逢ひ致さず候《さふらふ》と書いて玄関へ張つたのですよ。もう安心ですわ。あんなに詰めかけて来ると外《ほか》の者がひやひやするのですもの、巴里《パリイ》の兄《にい》さんもそれが案じられると云つて居《を》られるのですからね。』
『お照さん、巴里《パリイ》から私に手紙が来て居ないこと。』
『いいえ。』
『さうですか。』
『もう家《うち》へも参る頃なんですよ。』
『私は来て居るだらうとばかり思つてたわ。』
 鏡子は情《なさけ》なささうに云つて、※[#「月+齶のつくり」
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