女《むすめ》の顔を上から覗《のぞ》き込んで鏡子が云つた。
『ええ。』
 瑞木は不安らしくかう云つたのである。大きい目には涙が溜《たま》つて居る。それを見ると鏡子も悲しくなつて来た。汽車から持つて出た氷を包んだタオルはこの時まだ大事さうに鏡子の手に持たれて居たので、指ににじむその雫《しづく》を冷《つめた》く思つたのは十月の末《すゑ》の日比谷の寂しい木立の中を車の進む時であつた。
『兄《にい》さん、お父《とう》様の帰る時は僕も神戸へ行くよ。』
『伴《つ》れて行つて上げるよ。』
『兄《にい》さんに伴《つ》れて行つて貰はないでも母《かあ》さんと行《ゆ》くのだよ。』
『ぢやあ行《ゆ》きなさいよ。僕なんかもうこれから君と一緒に学校へ行《ゆ》かない。何時《いつ》でも先行つちまふから好《い》い。』
『いやあ、兄《にい》さん。』
『およしなさいよ。ぎやあの大将。』
 二番目の車に居る二人は三宅阪を曲《まが》る時にこんな争ひをして居た。麹町の通《とほり》から市ケ谷へ附いた新開の道を通る時、鏡子は立つ前の一月《ひとつき》程この道を通つて湯屋へ子供達を伴《つ》れて行く度に、やがて来る日の悲しさが思はれて胸がいつぱいになつた事などの思ひ出が氷の雫《しづく》と同じやうに心からしみ出すのを覚えた。其《その》事を云つて巴里《パリイ》でかこつた相手の事も思ひ出される。車屋の角を曲《まが》るともう美阪家《みさかけ》の勝手の門が見えた。
『ををばあさあん。』
 と大きい声で云つて居るのが塀|越《ご》しに聞《きこ》えた。同じ節で同じ事を云ふ低い声も聞《きこ》える。大きいのが女の子の声で低いのが男の子の声である。この刹那《せつな》に鏡子はお照から来た何時《いつか》の手紙にも榮が可愛くなつたとばかり書いてあつて、[#「、」は底本では「。」]ついぞ晨の事の無かつたのと、自身が抱かうとすると反《そ》りかへつて、
『いやだあい。』
 と幾度も繰り返した榮子の気の強さを思つて、其《その》子が叔母の愛の前に幅を拡《ひろ》げて晨は陰の者になつて居るのではないかと胸が轟《とゞろ》いた。早く晨を抱いて遣らねばならないと思はず鏡子の身体《からだ》は前へ出た。
『おかへりい。』
 門の戸は重い音を立てゝ開《あ》けられた。瑞木を車夫が下へ降《おろ》すのと一緒に鏡子は転《ころ》ぶやうにして門をくゞつた。
 玄関の板間《いたのま
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