負をも持っていない。私に断えず附き纏《まと》っているものは自負の反対に立つ不足不備の意識と謙抑羞恥の感情とである。
*
しかし私も時として思い掛けない自負を他から激発せられて意識することがある。それは私を理解しない人、もしくは私に反感を持っている人が、私自身に謙抑している以下に私の価値を引下げて私を是非した時のことである。そういう時に私は単純な本能的の怒を覚えると共に私にも私だけの恃《たの》むべき価値を備えていることをその人に対して誇りたいような気持になるのである。けれどその気持と怒とは大抵瞬時の後に、よしや長く持続しても一両日の後に煙の如く消えてしまう。そして私の自覚は、私の怒が私の生活に必要なために発する公憤でなくて他人の不誠実と不聡明とに反応する私憤であり、私の自負が私の平生《へいぜい》に希望している内生の満足を意味するのでなくて、他人に私の微弱な自我をわざと誇張し、見せびらかそうとする痩我慢であるのを深く密《ひそ》かに愧《は》じている。
[#地から1字上げ](『太陽』一九一五年一―二月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭
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