に切実な重大問題であるのに、如何なる場合にも団子より花が大切だ、上品だというような融通の利《き》かない迷信があるので、どれだけ人生の健かな発達を阻害しているか知れない。

       *

 私は学者の議論が直ぐに人類全体の実際生活を改造することに役立つものであるような誤解を近頃までしていた。そして実際に役立つものでなくては最早現代の学問ではないように誤解していた。しかし学者は人生または自然の一方を常に凝視して未知の新事業を発見することに努力し、永遠の時を少しでも早く手繰《たぐ》り寄せて現代の生活に貢献しようとしているものである。学者は永遠の中に住んでいる。現代に住んで現代を超越しているのが学者の境地である。芸術家もまた同様の境地にいる永遠の子である。学者や芸術家の事業には勿論そのまま現代の幸福となる種類のものもないではないが、常に永遠の上に一方を凝視して得た思想である以上、それが局限せられた当面の時と、智識の度の千差万別である現代の全人類とに皆が皆適用しがたいのは当然である。私は学者や芸術家を尊敬する。しかし学者や芸術家の思想からその現代に実行し得るものだけを選択して自己の生活の改造に資するのは我々自身の自由であり、喜びであると思っている。

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 学者や芸術家はその純粋を保とうとするほど、恐らく局限せられた実際社会の改造に指を染めてはなるまい。かの人たちも一面には我々と同じ現代の一人である以上現代を最も多く眼中に置くことは勿論であるが、現代のために永遠を犠牲にしてはならない。現代の改造に熱中すれば恐らく失敗するであろう。学者や芸術家がその純粋の自我を毀損《きそん》しないで現代の紛々たる俗争の間に立ち得るとはどうしても想われない。私はオイッケンのような学者やハウプトマンのような芸術家が今度の戦争の牽強《けんきょう》の弁疏《べんそ》を独逸《ドイツ》のためになさねばならなかったのを気の毒に思っている。そしてまた私はベルグソンがその哲学を仏蘭西《フランス》の政治問題や社会問題に直ちに適用しようとする様子のないということを聞いて大哲学者の聡明を奥ゆかしく想っている。

       *

 学者や芸術家と異《ちが》って、政治家、教育家、社会改良家、新聞雑誌記者などの生活は、天才の新思想に刺戟《しげき》せられて常に驚異に全身を若返らせながら、自己の動《やや
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