或女は多数の男子に性欲観があって貞操観がないように、貞操ということを自己の生活の上にそれほど重大な問題であるとは考えず、極めて冷淡に取扱っているかも知れぬ。また或女は無情と酷薄とを極めた旧道徳に対する反感から殊更《ことさら》に貞操を眼中に置かないという風な矯激の思想を持っているかも知れぬ。
外から一律に万人へ覆《お》っ被《かぶ》せる無理な倫理に愛想をつかして、個人が内から思い思いに実際生活の要求に迫られて随時随処に建てる自然の倫理を推重《すいちょう》する私は、貞操についても先ず何より個人のその時時の自由な併せて聡明な実行に任せることを望む者である。
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私は特に「自由に併せて聡明な実行」という。真の生活は実行より外にない。そして実行は自由であると共に聡明でなくては失敗する。ここに「失敗する」というのは社会上の成功不成功をいうのでなくて、個人の生活意志の破滅することを言うのである。内省した自我の上に不充実と不満足との悔《くい》を招くに到ることを言うのである。
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既に貞操が婦人の生活の中枢生命であるとせられた時代は過ぎた。そして如何に質朴な民衆の上に神権主義の道徳が圧力を持っていた時代でも、実際に全婦人をその貞操倫理の金科玉条で司配《しはい》することは出来なかった。二夫に見《まみ》えた女は地上到る処の帝王の家にもあった。女の再婚は大抵やむをえない事として現に寛仮《かんか》せられ、もしくは正当の事としてその父兄が強いるほどである。殊に貞操道徳の制定者である男子が好んで多数の女子の貞操を破ることが普通の現象でさえある。今の男子の多数はそういう不倫な祖先から生れ、もしくはそういう不倫な女の父兄であり、配偶者であり、縁者であり、友である。如何に死を嫌っても世に死者を出さなかった一族のない如く、真に人間を愛する人なら、最早貞操一点張りを以て女を責めるに忍びないはずである。
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私はピカデリイやグラン・ブルヴァルの繁華な大通で、倫敦《ロンドン》人や巴里《パリイ》人の車馬と群衆とが少しの喧囂《けんごう》も少しの衝突もせずに軽快な行進を続けて行くのを見て驚かずにいられなかった。そして自由に歩む者は聡明な律を各自に案出して歩んで行くものであるということを知った。
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私は貞操倫理のみならず、一般に従来の他
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